2008年11月10日月曜日

三十

 嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうに詰《なじ》った。
「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」
「だっていつやむか解らないから困るんです」
「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」
「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」
「じゃすぐ帰りましょう」
 嫂《あによめ》はこう云って、すぐ立ち上った。その様子には一種の決断があらわれていた。向《むこう》の座敷では客の頭が揃《そろ》ったのか、三味線の音《ね》が雨を隔てて爽《さわや》かに聞え出した。電灯もすでに輝いた。自分も半《なか》ば嫂の決心に促《うなが》されて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言《ひとこと》も口へ出していなかった。後《おく》れて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心《かんじん》の用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。
「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」
 自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。自分は固《もと》よりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度《したく》は始めなかった。彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間《すきま》なく身構えているらしく見えた。自分はまた軒端《のきば》へ首を出して上の方を望んだ。室《へや》の位置が中庭を隔てて向うに大きな二階建の広間を控えているため、空はいつものように広くは限界に落ちなかった。したがって雲の往来《ゆきき》や雨の降り按排《あんばい》も、一般的にはよく分らなかった。けれども凄《すさ》まじさが先刻《さっき》よりは一層はなはだしく庭木を痛振《いたぶ》っているのは事実であった。自分は雨よりも空よりも、まずこの風に辟易《へきえき》した。
「あなたも妙な方ね。帰るというからそのつもりで仕度をすれば、また坐《すわ》ってしまって」
「仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。ただ立ったぎりでさあ」
 自分がこう云った時、嫂はにっこりと笑った。そうして故意《わざ》と己《おの》れの袖《そで》や裾《すそ》のあたりをなるほどといったようなまた意外だと驚いたような眼つきで見廻した。それから微笑を含んでその様子を見ていた自分の前に再びぺたりと坐った。
「何よ用談があるって。妾《あたし》にそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」
 雨は軒に響くというよりもむしろ風に乗せられて、気ままな場所へ叩《たた》きつけられて行くような音を起した。その間に三味線の音が気紛《きまぐ》れものらしく時々二人の耳を掠《かす》め去った。
「用があるなら早くおっしゃいな」と彼女は催促した。
「催促されたってちょっと云える事じゃありません」
 自分は実際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかった。すると彼女はにやにやと笑った。
「あなた取っていくつなの」
「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目《まじめ》な事なんだから」
「だから早くおっしゃいな」
 自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのが厭《いや》になった。そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊《みくび》られているような気がしてならなかった。それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。

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