2008年11月11日火曜日

三十一

 二人は俥《くるま》を雇《やと》って病院を出た。先へ梶棒《かじぼう》を上げた三沢の車夫が余り威勢よく馳《か》けるので、自分は大きな声でそれを留めようとした。三沢は後《うしろ》を振り向いて、手を振った。「大丈夫、大丈夫」と云うらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかった。宿へ着いたとき、彼は川縁《かわべり》の欄干《らんかん》に両手を置いて、眼の下の広い流をじっと眺《なが》めていた。
「どうした。心持でも悪いか」と自分は後から聞いた。彼は後を向かなかった。けれども「いいや」と答えた。「ここへ来てこの河を見るまでこの室《へや》の事をまるで忘れていた」
 そういって、彼は依然として流れに向っていた。自分は彼をそのままにして、麻の座蒲団《ざぶとん》の上に胡坐《あぐら》をかいた。それでも待遠しいので、やがて袂《たもと》から敷島《しきしま》の袋を出して、煙草を吸い始めた。その煙草が三分の一|煙《けむ》になった頃、三沢はようやく手摺《てすり》を離れて自分の前へ来て坐《すわ》った。
「病院で暮らしたのも、つい昨日今日のようだが、考えて見ると、もうだいぶんになるんだね」と云って指を折りながら、日数《ひかず》を勘定《かんじょう》し出した。
「三階の光景が当分眼を離れないだろう」と自分は彼の顔を見た。
「思いも寄らない経験をした。これも何かの因縁《いんねん》だろう」と三沢も自分の顔を見た。
 彼は手を叩《たた》いて、下女を呼んで今夜の急行列車の寝台《しんだい》を注文した。それから時計を出して、食事を済ました後《あと》、時間にどのくらい余裕があるかを見た。窮屈に馴《な》れない二人はやがて転《ごろ》りと横になった。
「あの女は癒《なお》りそうなのか」
「そうさな。事によると癒るかも知れないが……」
 下女が誂《あつら》えた水菓子を鉢《はち》に盛って、梯子段《はしごだん》を上って来たので、「あの女」の話はこれで切れてしまった。自分は寝転《ねころ》んだまま、水菓子を食った。その間彼はただ自分の口の辺《あたり》を見るばかりで、何事も云わなかった。しまいにさも病人らしい調子で、「おれも食いたいな」と一言《ひとこと》云った。先刻《さっき》から浮かない様子を見ていた自分は、「構うものか、食うが好い。食え食え」と勧めた。三沢は幸いにして自分が氷菓子《アイスクリーム》を食わせまいとしたあの日の出来事を忘れていた。彼はただ苦笑いをして横を向いた。
「いくら好《すき》だって、悪いと知りながら、無理に食わせられて、あの女のようになっちゃ大変だからな」
 彼は先刻から「あの女」の事を考えているらしかった。彼は今でも「あの女」の事を考えているとしか思われなかった。
「あの女は君を覚えていたかい」
「覚えているさ。この間会って、僕から無理に酒を呑まされたばかりだもの」
「恨《うら》んでいたろう」
 今まで横を向いてそっぽへ口を利《き》いていた三沢は、この時急に顔を向け直してきっと正面から自分を見た。その変化に気のついた自分はすぐ真面目な顔をした。けれども彼があの女の室に入った時、二人の間にどんな談話が交換されたかについて、彼はついに何事をも語らなかった。
「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一《まんいち》癒《なお》るとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟《おおげさ》だが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌《ごきげん》ようと云った。僕はその淋《さび》しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」

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