2008年11月10日月曜日

二十三

 その日は何事も起らずに済んだ。夕方は四人《よつたり》でトランプをした。みんなが四枚ずつのカードを持って、その一枚を順送りに次の者へ伏せ渡しにするうちに数の揃《そろ》ったのを出してしまうと、どこかにスペードの一が残る。それを握ったものが負になるという温泉場などでよく流行《はや》る至極《しごく》簡単なものであった。
 母と自分はよくスペードを握っては妙な顔をしてすぐ勘《かん》づかれた。兄も時々苦笑した。一番冷淡なのは嫂《あによめ》であった。スペードを握ろうが握るまいがわれにはいっこう関係がないという風をしていた。これは風というよりもむしろ彼女《かのじょ》の性質であった。自分はそれでも兄が先刻《さっき》の会談のあと、よくこれほどに昂奮《こうふん》した神経を治められたものだと思ってひそかに感心した。
 晩は寝られなかった。昨夕《ゆうべ》よりもなお寝られなかった。自分はどどんどどんと響く浪《なみ》の音の間に、兄夫婦の寝ている室《へや》に耳を澄ました。けれども彼らの室は依然として昨夜のごとく静《しずか》であった。自分は母に見咎《みとが》められるのを恐れて、その夜《よ》はあえて縁側《えんがわ》へ出なかった。
 朝になって自分は母と嫂を例の東洋第一エレヴェーターへ案内した。そうして昨日《きのう》のように山の上の猿に芋《いも》をやった。今度は猿に馴染《なじみ》のある宿の女中がいっしょに随《つ》いて来たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりはだいぶ賑《にぎ》やかだった。母は茶店の床几《しょうぎ》に腰をかけて、新和歌《しんわか》の浦《うら》とかいう禿《は》げて茶色になった山を指《さ》して何だろうと聞いていた。嫂はしきりに遠眼鏡《とおめがね》はないか遠眼鏡はないかと騒いだ。
「姉さん、芝の愛宕様《あたごさま》じゃありませんよ」と自分は云ってやった。
「だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。
 夕方になって自分はとうとう兄に引っ張られて紀三井寺《きみいでら》へ行った。これは婦人|連《れん》が昨日すでに参詣《さんけい》したというのを口実に、我々二人だけが行く事にしたのであるが、その実兄の依頼を聞くために自分が彼から誘い出されたのである。
 自分達は母の見ただけで恐れたという高い石段を一直線に上《のぼ》った。その上は平《ひら》たい山の中腹で眺望《ちょうぼう》の好い所にベンチが一つ据《す》えてあった。本堂は傍《そば》に五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりも寂《さび》があった。廂《ひさし》の最中《まんなか》から下《さが》っている白い紐《ひも》などはいかにも閑静に見えた。
 自分達は何物も眼を遮《さえぎ》らないベンチの上に腰をおろして並び合った。
「好い景色ですね」
 眼の下には遥《はるか》の海が鰯《いわし》の腹のように輝いた。そこへ名残《なごり》の太陽が一面に射して、眩《まば》ゆさが赤く頬を染めるごとくに感じた。沢《さわ》らしい不規則な水の形もまた海より近くに、平たい面を鏡のように展《の》べていた。
 兄は例の洋杖《ステッキ》を顋《あご》の下に支えて黙っていたが、やがて思い切ったという風に自分の方を向いた。
「二郎|実《じつ》は頼みがあるんだが」
「ええ、それを伺うつもりでわざわざ来たんだからゆっくり話して下さい。できる事なら何でもしますから」
「二郎実は少し云い悪《にく》い事なんだがな」
「云い悪い事でも僕だから好いでしょう」
「うんおれは御前を信用しているから話すよ。しかし驚いてくれるな」
 自分は兄からこう云われた時に、話を聞かない先《さき》にまず驚いた。そうしてどんな注文が兄の口から出るかを恐れた。兄の気分は前云った通り変り易《やす》かった。けれどもいったん何か云い出すと、意地にもそれを通さなければ承知しなかった。

0 件のコメント: