2008年11月10日月曜日

十五

 その晩自分は母といっしょに真白な蚊帳《かや》の中に寝た。普通の麻よりは遥《はるか》に薄くできているので、風が来て綺麗《きれい》なレースを弄《もてあそ》ぶ様《さま》が涼しそうに見えた。
「好い蚊帳ですね。宅《うち》でも一つこんなのを買おうじゃありませんか」と母に勧めた。
「こりゃ見てくれだけは綺麗だが、それほど高いものじゃないよ。かえって宅にあるあの白麻の方が上等なんだよ。ただこっちのほうが軽くって、継《つ》ぎ目《め》がないだけに華奢《きゃしゃ》に見えるのさ」
 母は昔ものだけあって宅《うち》にある岩国《いわくに》かどこかでできる麻の蚊帳の方を賞《ほ》めていた。
「だいち寝冷《ねびえ》をしないだけでもあっちの方が得じゃないか」と云った。
 下女が来て障子《しょうじ》を締め切ってから、蚊帳は少しも動かなくなった。
「急に暑苦しくなりましたね」と自分は嘆息するように云った。
「そうさね」と答えた母の言葉は、まるで暑さが苦にならないほど落ちついていた。それでも団扇遣《うちわづかい》の音だけは微《かす》かに聞こえた。
 母はそれからふっつり口を利《き》かなくなった。自分も眼を眠《ねむ》った。襖《ふすま》一つ隔てた隣座敷には兄夫婦が寝ていた。これは先刻《さっき》から静《しずか》であった。自分の話相手がなくなってこっちの室《へや》が急にひっそりして見ると、兄の室はなお森閑と自分の耳を澄ました。
 自分は眼を閉じたままじっとしていた。しかしいつまで経《た》っても寝つかれなかった。しまいには静さに祟《たた》られたようなこの暑い苦しみを痛切に感じ出した。それで母の眠《ねむり》を妨《さまた》げないようにそっと蒲団《ふとん》の上に起き直った。それから蚊帳《かや》の裾《すそ》を捲《まく》って縁側《えんがわ》へ出る気で、なるべく音のしないように障子《しょうじ》をすうと開《あ》けにかかった。すると今まで寝入っていたとばかり思った母が突然「二郎どこへ行くんだい」と聞いた。
「あんまり寝苦しいから、縁側へ出て少し涼もうと思います」
「そうかい」
 母の声は明晰《めいせき》で落ちついていた。自分はその調子で、彼女がまんじりともせずに今まで起きていた事を知った。
「御母さんも、まだ御休みにならないんですか」
「ええ寝床の変ったせいか何だか勝手が違ってね」
 自分は貸浴衣《かしゆかた》の腰に三尺帯を一重《ひとえ》廻しただけで、懐《ふところ》へ敷島《しきしま》の袋と燐寸《マッチ》を入れて縁側へ出た。縁側には白いカヴァーのかかった椅子が二脚ほど出ていた。自分はその一脚を引き寄せて腰をかけた。
「あまりがたがた云わして、兄さんの邪魔になるといけないよ」
 母からこう注意された自分は、煙草《たばこ》を吹かしながら黙って、夢のような眼前《めのまえ》の景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、ことさら暗いものが蔓《はびこ》り過ぎた。そのうちに昼間見た土手の松並木だけが一際《ひときわ》黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。その下に浪《なみ》の砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的|刺戟強《しげきづよ》く見えた。
「もう好い加減に御這入《おはい》りよ。風邪《かぜ》でも引くといけないから」
 母は障子《しょうじ》の内からこう云って注意した。自分は椅子に倚《よ》りながら、母に夜の景色を見せようと思ってちょっと勧めたが、彼女は応じなかった。自分は素直にまた蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。
 自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森《しん》として元のごとく静かであった。自分が再び床に着いた後《あと》も依然として同じ沈黙に鎖《とざ》されていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんといつまでも響いた。

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