2008年11月12日水曜日

十一

 自分はこの手紙を出しっきりにして大阪を立退《たちの》きたかった。岡田も母の返事の来るまで自分にいて貰う必要もなかろうと云った。
「けれどもまあ緩《ゆっ》くりなさい」
 これが彼のしばしば繰り返す言葉であった。夫婦の好意は自分によく解っていた。同時に彼らの迷惑もまたよく想像された。夫婦ものに自分のような横着《おうちゃく》な泊り客は、こっちにも多少の窮屈《きゅうくつ》は免《まぬ》かれなかった。自分は電報のように簡単な端書《はがき》を書いたぎり何の音沙汰《おとさた》もない三沢が悪《にく》らしくなった。もし明日中《あしたじゅう》に何とか音信《たより》がなければ、一人で高野登りをやろうと決心した。
「じゃ明日は佐野を誘って宝塚《たからづか》へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰《さしくり》をしてくれるのが苦《く》になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。お兼さんはちょっと見ると、派出好《はでずき》の女らしいが、それはむしろ色白な顔立や様子がそう思わせるので、性質からいうと普通の東京ものよりずっと地味《じみ》であった。外へ出る夫の懐中にすら、ある程度の束縛を加えるくらい締っているんじゃないかと思われた。
「御酒《ごしゅ》を召上らない方《かた》は一生のお得ですね」
 自分の杯《さかずき》に親しまないのを知ったお兼さんは、ある時こういう述懐《じゅっかい》を、さも羨《うらや》ましそうに洩《も》らした事さえある。それでも岡田が顔を赤くして、「二郎さん久しぶりに相撲《すもう》でも取りましょうか」と野蛮な声を出すと、お兼さんは眉《まゆ》をひそめながら、嬉《うれ》しそうな眼つきをするのが常であったから、お兼さんは旦那の酔《よ》うのが嫌《きら》いなのではなくって、酒に費用《ついえ》のかかるのが嫌いなのだろうと、自分は推察していた。
 自分はせっかくの好意だけれども宝塚行を断《ことわ》った。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、ちょっと電車に乗って一人で行って様子を見て来《き》ようと取りきめた。岡田は「そうですか。文楽《ぶんらく》だと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。
 翌朝《よくあさ》自分は岡田といっしょに家《うち》を出た。彼は電車の上で突然自分の忘れかけていたお貞さんの結婚問題を持ち出した。
「僕はあなたの親類だと思ってやしません。あなたのお父さんやお母さんに書生として育てられた食客《しょっかく》と心得ているんです。僕の今の地位だって、あのお兼だって、みんなあなたの御両親のお蔭《かげ》でできたんです。だから何か御恩返しをしなくっちゃすまないと平生から思ってるんです。お貞さんの問題もつまりそれが動機でしたんですよ。けっして他意はないんですからね」
 お貞さんは宅《うち》の厄介ものだから、一日も早くどこかへ嫁に世話をするというのが彼の主意であった。自分は家族の一人として岡田の好意を謝すべき地位にあった。
「お宅《たく》じゃ早くお貞さんを片づけたいんでしょう」
 自分の父も母も実際そうなのである。けれどもこの時自分の眼にはお貞さんと佐野という縁故も何もない二人がいっしょにかつ離れ離れに映じた。
「旨《うま》く行くでしょうか」
「そりゃ行くだろうじゃありませんか。僕とお兼を見たって解るでしょう。結婚してからまだ一度も大喧嘩《おおげんか》をした事なんかありゃしませんぜ」
「あなた方《がた》は特別だけれども……」
「なにどこの夫婦だって、大概似たものでさあ」
 岡田と自分はそれでこの話を切り上げた。

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