2008年11月6日木曜日

二十二

「空恍けてると云われちゃちっと可哀《かわい》そうですね。話す機会もなし、また話す必要がないんですもの」
「機会は毎日ある。必要はお前になくてもおれの方にあるから、わざわざ頼んだのだ」
 自分はその時ぐっと行きつまった。実はあの事件以後、嫂《あによめ》について兄の前へ一人出て、真面目に彼女を論ずるのがいかにも苦痛だったのである。自分は話頭を無理に横へ向けようとした。
「兄さんはすでにお父さんを信用なさらず。僕もそのお父さんの子だという訳で、信用なさらないようだが、和歌の浦でおっしゃった事とはまるで矛盾していますね」
「何が」と兄は少し怒気を帯びて反問した。
「何がって、あの時、あなたはおっしゃったじゃありませんか。お前は正直なお父さんの血を受けているから、信用ができる、だからこんな事を打ち明けて頼むんだって」
 自分がこう云うと、今度は兄の方がぐっと行きつまったような形迹《けいせき》を見せた。自分はここだと思って、わざと普通以上の力を、言葉の裡《うち》へ籠《こ》めながらこう云った。
「そりゃ御約束した事ですから、嫂《ねえ》さんについて、あの時の一部始終《いちぶしじゅう》を今ここで御話してもいっこう差支《さしつか》えありません。固《もと》より僕はあまり下らない事だから、機会が来なければ口を開く考えもなし、また口を開いたって、ただ一言《いちごん》で済んでしまう事だから、兄さんが気にかけない以上、何も云う必要を認めないので、今日《こんにち》まで控えていたんですから。――しかし是非何とか報告をしろと、官命で出張した属官流に逼《せま》られれば、仕方がない。今|即刻《すぐ》でも僕の見た通りをお話します。けれどもあらかじめ断っておきますが、僕の報告から、あなたの予期しているような変な幻《まぼろし》はけっして出て来ませんよ。元々あなたの頭にある幻なんで、客観的にはどこにも存在していないんだから」
 兄は自分の言葉を聞いた時、平生と違って、顔の筋肉をほとんど一つも動かさなかった。ただ洋卓《テーブル》の前に肱《ひじ》を突いたなり、じっとしていた。眼さえ伏せていたから、自分には彼の表情がちっとも解らなかった。兄は理に明らかなようで、またその理にころりと抛《な》げられる癖があった。自分はただ彼の顔色が少し蒼《あお》くなったのを見て、これは必竟《ひっきょう》彼が自分の強い言語に叩《たた》かれたのだと判断した。
 自分はそこにあった巻莨入《まきたばこいれ》から煙草《たばこ》を一本取り出して燐寸《マッチ》の火を擦《す》った。そうして自分の鼻から出る青い煙と兄の顔とを等分に眺めていた。
「二郎」と兄がようやく云った。その声には力も張《はり》もなかった。
「何です」と自分は答えた。自分の声はむしろ驕《おご》っていた。
「もうおれはお前に直《なお》の事について何も聞かないよ」
「そうですか。その方が兄さんのためにも嫂さんのためにも、また御父さんのためにも好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂《あによめ》を弁護するように、また兄を戒めるように云った。
「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。その声はおそらく下まで聞えたろうが、すぐ傍《そば》に坐っている自分には、ほとんど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。
「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨《うま》いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児《けいはくじ》め」
 自分の腰は思わず坐っている椅子《いす》からふらりと離れた。自分はそのまま扉《ドア》の方へ歩いて行った。
「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後《あと》、何で貴様の報告なんか宛《あて》にするものか」
 自分はこういう烈《はげ》しい言葉を背中に受けつつ扉《ドア》を閉めて、暗い階段の上に出た。

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