2008年11月11日火曜日

二十

 その夕方の空が風を殺して静まり返った灯《ひ》ともし頃、自分はまた曲りくねった段々を急ぎ足に三沢の室《へや》まで上《のぼ》った。彼は食後と見えて蒲団《ふとん》の上に胡坐《あぐら》をかいて大きくなっていた。
「もう便所へも一人で行くんだ。肴《さかな》も食っている」
 これが彼のその時の自慢であった。
 窓は三《みっ》つ共《とも》明け放ってあった。室が三階で前に目を遮《さえ》ぎるものがないから、空は近くに見えた。その中に燦《きら》めく星も遠慮なく光を増して来た。三沢は団扇《うちわ》を使いながら、「蝙蝠《こうもり》が飛んでやしないか」と云った。看護婦の白い服が窓の傍《そば》まで動いて行って、その胴から上がちょっと窓枠《まどわく》の外へ出た。自分は蝙蝠《こうもり》よりも「あの女」の事が気にかかった。「おい、あの事は解ったか」と聞いて見た。
「やっぱりあの女だ」
 三沢はこう云いながら、ちょっと意味のある眼遣《めづか》いをして自分を見た。自分は「そうか」と答えた。その調子が余り高いという訳なんだろう、三沢は団扇でぱっと自分の顔を煽《あお》いだ。そうして急に持ち交《か》えた柄《え》の方を前へ出して、自分達のいる室の筋向うを指《さ》した。
「あの室へ這入《はい》ったんだ。君の帰った後《あと》で」
 三沢の室は廊下の突き当りで往来の方を向いていた。女の室は同じ廊下の角《かど》で、中庭の方から明りを取るようにできていた。暑いので両方共入り口は明けたまま、障子《しょうじ》は取り払ってあったから、自分のいる所から、団扇の柄で指《さ》し示された部屋の入口は、四半分ほど斜めに見えた。しかしそこには女の寝ている床《とこ》の裾《すそ》が、画《え》の模様のように三角に少し出ているだけであった。
 自分はその蒲団の端《はじ》を見つめてしばらく何も云わなかった。
「潰瘍《かいよう》の劇《はげ》しいんだ。血を吐《は》くんだ」と三沢がまた小さな声で告げた。自分はこの時彼が無理をやると潰瘍になる危険があるから入院したと説明して聞かせた事を思い出した。潰瘍という言葉はその折自分の頭に何らの印象も与えなかったが、今度は妙に恐ろしい響を伝えた。潰瘍の陰に、死という怖いものが潜《ひそ》んでいるかのように。
 しばらくすると、女の部屋で微《かす》かにげえげえという声がした。
「そら吐いている」と三沢が眉《まゆ》をひそめた。やがて看護婦が戸口へ現れた。手に小さな金盥《かなだらい》を持ちながら、草履《ぞうり》を突っかけて、ちょっと我々の方を見たまま出て行った。
「癒《なお》りそうなのかな」
 自分の眼には、今朝《けさ》腮《あご》を胸に押しつけるようにして、じっと腰をかけていた美くしい若い女の顔がありありと見えた。
「どうだかね。ああ嘔《は》くようじゃ」と三沢は答えた。その表情を見ると気の毒というよりむしろ心配そうなある物に囚《とら》えられていた。
「君は本当にあの女を知っているのか」と自分は三沢に聞いた。
「本当に知っている」と三沢は真面目《まじめ》に答えた。
「しかし君は大阪へ来たのが今度始めてじゃないか」と自分は三沢を責めた。
「今度来て今度知ったのだ」と三沢は弁解した。「この病院の名も実はあの女に聞いたのだ。僕はここへ這入《はい》る時から、あの女がことによるとやって来やしないかと心配していた。けれども今朝君の話を聞くまではよもやと思っていた。僕はあの女の病気に対しては責任があるんだから……」

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