2008年11月10日月曜日

 母の宿はさほど大きくはなかったけれども、自分の泊っている所よりはよほど上品な構《かまえ》であった。室《へや》には扇風器だの、唐机《とうづくえ》だの、特別にその唐机の傍《そば》に備えつけた電灯などがあった。兄はすぐそこにある電報紙へ大阪着の旨《むね》を書いて下女に渡していた。岡田はいつの間にか用意して来た三四枚の絵端書《えはがき》を袂《たもと》の中から出して、これは叔父さん、これはお重《しげ》さん、これはお貞《さだ》さんと一々|名宛《なあて》を書いて、「さあ一口《ひとくち》ずつ皆《みん》などうぞ」と方々へ配っていた。
 自分はお貞さんの絵端書へ「おめでとう」と書いた。すると母がその後《あと》へ「病気を大事になさい」と書いたので吃驚《びっくり》した。
「お貞さんは病気なんですか」
「実はあの事があるので、ちょうど好い折だから、今度|伴《つ》れて来《き》ようと思って仕度までさせたところが、あいにくお腹《なか》が悪くなってね。残念な事をしましたよ」
「でも大した事じゃないのよ。もうお粥《かゆ》がそろそろ食べられるんだから」と嫂《あによめ》が傍《そば》から説明した。その嫂は父に出す絵端書を持ったまま何か考えていた。「叔父さんは風流人だから歌が好いでしょう」と岡田に勧められて、「歌なんぞできるもんですか」と断った。岡田はまたお重へ宛《あ》てたのに、「あなたの口の悪いところを聞けないのが残念だ」と細《こま》かく謹《つつし》んで書いたので、兄から「将棋の駒がまだ祟《たた》ってると見えるね」と笑われていた。
 絵端書が済んで、しばらく世間話をした後で、岡田とお兼さんはまた来ると云って、母や兄が止《と》めるのも聞かずに帰って行った。
「お兼さんは本当に奥さんらしくなったね」
「宅《うち》へ仕立物を持って来た時分を考えると、まるで見違えるようだよ」
 母が兄とお兼さんを評し合った言葉の裏には、己《おの》れがそれだけ年を取ったという淡い哀愁《あいしゅう》を含んでいた。
「お貞さんだって、もう直《じき》ですよお母さん」と自分は横合から口を出した。
「本当にね」と母は答えた。母は腹の中で、まだ片づく当《あて》のないお重の事でも考えているらしかった。兄は自分を顧《かえり》みて、「三沢が病気だったので、どこへも行かなかったそうだね」と聞いた。自分は「ええ。とんだところへ引っかかってどこへも行かずじまいでした」と答えた。自分と兄とは常にこのくらい懸隔《かけへだて》のある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気《むかしかたぎ》で、長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた結果である。母もたまには自分をさんづけにして二郎さんと呼んでくれる事もあるが、これは単に兄の一郎《いちろう》さんのお余りに過ぎないと自分は信じていた。
 みんなは話に気を取られて浴衣《ゆかた》を着換えるのを忘れていた。兄は立って、糊《のり》の強いのを肩へ掛けながら、「どうだい」と自分を促《うな》がした。嫂は浴衣を自分に渡して、「全体あなたのお部屋はどこにあるの」と聞いた。手摺《てすり》の所へ出て、鼻の先にある高い塗塀《ぬりべい》を欝陶《うっとう》しそうに眺《なが》めていた母は、「いい室《へや》だが少し陰気だね。二郎お前のお室もこんなかい」と聞いた。自分は母のいる傍《そば》へ行って、下を見た。下には張物板《はりものいた》のような細長い庭に、細い竹が疎《まばら》に生えて錆《さ》びた鉄灯籠《かなどうろう》が石の上に置いてあった。その石も竹も打水《うちみず》で皆しっとり濡《ぬ》れていた。
「狭いが凝《こ》ってますね。その代り僕の所のように河がありませんよ、お母さん」
「おやどこに河があるの」と母がいう後《あと》から、兄も嫂《あによめ》もその河の見える座敷と取換えて貰おうと云い出した。自分は自分の宿のある方角やら地理やらを説明して聞かした。そうしてひとまず帰って荷物を纏《まと》めた上またここへ来る約束をして宿を出た。

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