2008年11月6日木曜日

十七

 父は意外な女の見識に、話の腰を折られて、やむをえず席を立とうとした。すると女は始めて女らしい表情を面《おもて》に湛《たた》えて、縋《すが》りつくように父をとめた。そうしていつ何日《いつか》どこで○○が自分を見たのかと聞いた。父は例の有楽座の事を包み蔵《かく》さず盲人《もうじん》に話して聞かせた。
「ちょうどあなたの隣に腰をかけていたんだそうです。あなたの方ではまるで知らなかったでしょうが、○○は最初から気がついていたのです。しかし細君や娘の手前、口を利《き》く事もでき悪《にく》かったんでしょう。それなり宅《うち》へ帰ったと云っていました」
 父はその時始めて盲目《めくら》の涙腺《るいせん》から流れ出る涙を見た。
「失礼ながら眼を御煩《おわずら》いになったのはよほど以前の事なんですか」と聞いた。
「こういう不自由な身体《からだ》になってから、もう六年ほどにもなりましょうか。夫が亡《な》くなって一年|経《た》つか経たないうちの事でございます。生《うま》れつきの盲目と違って、当座は大変不自由を致しました」
 父は慰めようもなかった。彼女のいわゆる夫というのは何でも、請負師《うけおいし》か何かで、存生中《ぞんしょうちゅう》にだいぶ金を使った代りに、相応の資産も残して行ったらしかった。彼女はその御蔭《おかげ》で眼を煩った今日《こんにち》でも、立派に独立して暮して行けるのだろうと父は説明した。
 彼女は人に誇ってしかるべき倅《せがれ》と娘を持っていた。その倅には高等の教育こそ施してないようだったけれども、何でも銀座辺のある商会へ這入《はい》って独立し得るだけの収入を得ているらしかった。娘の方は下町風の育て方で、唄《うた》や三味線の稽古《けいこ》を専一と心得させるように見えた。すべてを通じて○○とは遠い過去に焼きつけられた一点の記憶以外に何ものをも共通にもっているとは思えなかった。
 父が有楽座の話をした時に、女は両方の眼をうるませて、「本当に盲目ほど気の毒なものはございませんね」と云ったのが、痛く父の胸には応《こた》えたそうである。
「○○さんは今何をしておいででございますか」と女はまた空中に何物をか想像するがごとき眼遣《めづかい》をして父に聞いた。父は残りなく○○が学校を出てから以後の経歴を話して聞かせた後、「今じゃなかなか偉くなっていますよ。私見たいな老朽とは違ってね」と答えた。
 女は父の返事には耳も借さずに、「定めてお立派な奥さんをお貰いになったでございましょうね」とおとなしやかに聞いた。
「ええもう子供が四人《よつたり》あります」
「一番お上のはいくつにお成りで」
「さようさもう十二三にも成りましょうか。可愛《かわい》らしい女の子ですよ」
 女は黙ったなりしきりに指を折って何か勘定《かんじょう》し始めた。その指を眺めていた父は、急に恐ろしくなった。そうして腹の中で余計な事を云って、もう取り返しがつかないと思った。
 女はしばらく間をおいて、ただ「結構でございます」と一口云って後は淋《さび》しく笑った。しかしその笑い方が、父には泣かれるよりも怒られるよりも変な感じを与えたと云った。
 父は○○の宿所を明らさまに告げて、「ちと暇な時に遊びがてら御嬢さんでも連れて行って御覧なさい。ちょっと好い家《うち》ですよ。○○も夜ならたいてい御目にかかれると云っていましたから」と云った。すると女はたちまち眉《まゆ》を曇らして、「そんな立派な御屋敷へ我々|風情《ふぜい》がとても御出入《おでいり》はできませんが」と云ったまましばらく考えていたが、たちまち抑え切れないように真剣な声を出して、「御出入は致しません。先様《さきさま》で来いとおっしゃってもこっちで御遠慮しなければなりません。しかしただ一つ一生の御願に伺っておきたい事がございます。こうして御目にかかれるのももう二度とない御縁だろうと思いますから、どうぞそれだけ聞かして頂いた上心持よく御別れが致したいと存じます」と云った。

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