2008年11月6日木曜日

三十二

 自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石《ダイヤ》はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工《ざいく》だとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩《じゃくはい》な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐《かれん》に堪《た》えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。
「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵《なみたいてい》じゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」
「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。妻《さい》ですもの」
 嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。自分はますます可哀《かわい》そうになった。見ると彼女の眼を拭《ぬぐ》っていた小形の手帛《ハンケチ》が、皺《しわ》だらけになって濡《ぬ》れていた。自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬を撫《な》でてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。
「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、また嫌《きらい》なんですか」
 自分はこう云ってしまった後《あと》で、この言葉は手を出して嫂の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗《のぞ》くように見た。
「二郎さん」
「ええ」
 この簡単な答は、あたかも磁石《じしゃく》に吸われた鉄の屑《くず》のように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。
「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾《あたし》が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」
「そういう訳じゃけっしてないんですが」
「だから先刻《さっき》から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜《ふぬけ》のせいだって」
「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅《うち》のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」
「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他《ひと》から親切だって賞《ほ》められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」
 自分はかつて大きなクッションに蜻蛉《とんぼ》だの草花だのをいろいろの糸で、嫂《あによめ》に縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。
「あれ、まだ有るでしょう綺麗《きれい》ね」と彼女が云った。
「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。
 ふと耳を欹《そばだ》てると向うの二階で弾《ひ》いていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜《さが》し出しにかかったところへ女中が飛石伝《とびいしづたい》に縁側《えんがわ》から首を出した。
 自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。

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