2008年11月10日月曜日

二十七

 自分は自分を信じ切り、また愛し切っているとばかり考えていた母の表情を見てたちまち臆した。
「では止します。元々僕の発案《ほつあん》で姉さんを誘い出すんじゃない。兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。御母さんが御不承知ならいつでもやめます。その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」
 自分はこう答えて、何だかきまりが悪そうに母の前に立っていた。実は母の前を去る勇気が出なかったのである。母は少し途方に暮れた様子であった。しかししまいに思い切ったと見えて、「じゃ兄さんには妾《わたし》から話をするから、その代り御前はここに待ってておくれ、三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから」と云った。
 自分は母の後影を見送りながら、事がこんな風に引絡《ひっから》まった日には、とても嫂《あによめ》を連れて和歌山などへ行く気になれない、行ったところで肝心《かんじん》の用は弁じない、どうか母の思い通りに事が変じてくれれば好いがと思った。そうして気の落ちつかない胸を抱いて、広い座敷を右左に目的もなく往ったり来たりした。
 やがて三階から兄が下りて来た。自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。
「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」
 自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。
「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」
 自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。そうしてすぐ自分の傍《そば》へ寄って、
「二郎お母さんは先刻《さっき》ああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺《きみいでら》で約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。
「ええ」
 自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。
 やがて母と兄は下に待っている俥《くるま》に乗って、楼前から右の方へ鉄輪《かなわ》の音を鳴らして去った。
「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。
「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。
「あなたは」と向《むこう》も聞いた。
「僕はあります」
「あなたにあれば、妾《あたし》にだってあるわ」
 自分は立って着物を着換え始めた。
 嫂《あによめ》は上着を引掛けてくれながら、「あなた何だか今日は勇気がないようね」と調戯《からか》い半分に云った。自分は全く勇気がなかった。
 二人は電車の出る所まで歩いて行った。あいにく近路《ちかみち》を取ったので、嫂の薄い下駄《げた》と白足袋《しろたび》が一足《ひとあし》ごとに砂の中に潜《もぐ》った。
「歩き悪《にく》いでしょう」
「ええ」と云って彼女《かのじょ》は傘《かさ》を手に持ったまま、後《うしろ》を向いて自分の後足《あとあし》を顧みた。自分は赤い靴を砂の中に埋《うず》めながら、今日の使命をどこでどう果したものだろうと考えた。考えながら歩くせいか会話は少しも機《はず》まない心持がした。
「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。

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