2008年11月12日水曜日

 お兼さんは黒い盆の上に載《の》せた平野水《ひらのすい》と洋盃《コップ》を自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞いた。自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎《びん》を取り上げた。自分はこの時黙ってお兼さんの白い手ばかり見ていた。その手には昨夕《ゆうべ》気がつかなかった指環《ゆびわ》が一つ光っていた。
 自分が洋盃《コップ》を取上げて咽喉《のど》を潤《うるお》した時、お兼さんは帯の間から一枚の葉書を取り出した。
「先ほどお出《で》かけになった後《あと》で」と云いかけて、にやにや笑っている。自分はその表面に三沢の二字を認めた。
「とうとう参りましたね。御待かねの……」
 自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。
「一両日|後《おく》れるかも知れぬ」
 葉書に大きく書いた文字はただこれだけであった。
「まるで電報のようでございますね」
「それであなた笑ってたんですか」
「そう云う訳でもございませんけれども、何だかあんまり……」
 お兼さんはそこで黙ってしまった。自分はお兼さんをもっと笑わせたかった。
「あんまり、どうしました」
「あんまりもったいないようですから」
 お兼さんのお父さんというのは大変|緻密《ちみつ》な人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、たいていは葉書で用を弁じている代りに蠅《はえ》の頭のような字を十五行も並べて来るという話しを、お兼さんは面白そうにした。自分は三沢の事を全く忘れて、ただ前にいるお兼さんを的《まと》に、さまざまの事を尋ねたり聞いたりした。
「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守《るす》をしていると退屈するでしょう」
「そうでもございませんわ。私《わたくし》兄弟の多い家《うち》に生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見《いじめ》るものはないと思っておりますから」
「だって一人や二人はいいでしょう。岡田君は子供がないと淋《さみ》しくっていけないって云ってましたよ」
 お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺《なが》めていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。自分は何にも気がつかなかった。それでまた「奥さんはなぜ子供ができないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。自分はただ心やすだてで云ったことが、はなはだ面白くない結果を引き起したのを後悔した。けれどもどうする訳《わけ》にも行かなかった。その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。
 自分はこの居苦《いぐる》しくまた立苦《たちぐる》しくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。それには是非共話頭を転ずる必要があった。自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。お兼さんはすぐ元の態度を回復した。けれども夫に責任の過半を譲《ゆず》るつもりか、けっして多くを語らなかった。自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。

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