2008年11月6日木曜日

十六

 父には人に見られない一種|剽軽《ひょうきん》なところがあった。ある者は直《ちょく》な方《かた》だとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。
「親爺《おやじ》は全くあれで自分の地位を拵《こしら》え上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えを纏《まと》めたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑《けいべつ》されるだけだ」
 兄はこんな愚痴とも厭味《いやみ》とも、また諷刺《ふうし》とも事実とも、片のつかない感慨を、蔭《かげ》ながらかつて自分に洩《も》らした事があった。自分は性質から云うと兄よりもむしろ父に似ていた。その上年が若いので、彼のいう意味が今ほど明瞭《めいりょう》に解らなかった。
 何しろ父がその男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持って生れた物数奇《ものずき》から来たのだろうと自分は解釈している。
 父はやがてその盲目《めくら》の家を音信《おとず》れた。行く時に男は土産《みやげ》のしるしだと云って、百円札を一枚紙に包んで水引をかけたのに、大きな菓子折を一つ添えて父に渡した。父はそれを受取って、俥《くるま》をその女の家に駆《か》った。
 女の家は狭かったけれども小綺麗《こぎれい》にかつ住心地よくできていた。縁の隅《すみ》に丸く彫り抜いた御影《みかげ》の手水鉢《ちょうずばち》が据《す》えてあって、手拭掛《てぬぐいかけ》には小新らしい三越の手拭さえ揺《ゆら》めいていた。家内も小人数らしく寂然《ひっそり》として音もしなかった。
 父はこの日当りの好いしかし茶がかった小座敷で、初めてその盲人《もうじん》に会った時、ちょっと何と云って好いか分らなかったそうである。
「おれのようなものが言句に窮するなんて馬鹿げた恥を話すようだが実際困ったね。何しろ相手が盲目なんだからね」
 父はわざとこう云って皆《みん》なを興《きょう》がらせた。
 彼はその場でとうとう男の名を打ち明けて、例の土産ものを取り出しつつ女の前に置いた。女は眼が悪いので菓子折を撫《な》でたり擦《さす》ったりして見た上、「どうも御親切に……」と恭《うやうや》しく礼を述べたが、その上にある紙包を手で取上げるや否や、少し変な顔をして「これは?」と念を押すように聞いた。父は例の気性《きしょう》だから、呵々《からから》と笑いながら、「それも御土産《おみやげ》の一部分です、どうか一緒に受取っておいて下さい」と云った。すると女が水引の結び目を持ったまま、「もしや金子《きんす》ではございませんか」と問い返した。
「いえ何はなはだ軽少で、――しかし○○さんの寸志ですからどうぞ御納め下さい」
 父がこう云った時、女はぱたりとこの紙包を畳の上に落した。そうして閉じた眸《ひとみ》をきっと父の方へ向けて、「私は今|寡婦《やもめ》でございますが、この間まで歴乎《れっき》とした夫がございました。子供は今でも丈夫でございます。たといどんな関係があったにせよ、他人さまから金子を頂いては、楽《らく》に今日《こんにち》を過すようにしておいてくれた夫の位牌《いはい》に対してすみませんから御返し致します」と判切《はっきり》云って涙を落した。
「これには実に閉口したね」と父は皆《みん》なの顔を一順《いちじゅん》見渡したが、その時に限って、誰も笑うものはなかった。自分も腹の中で、いかな父でもさすがに弱ったろうと思った。
「その時わしは閉口しながらも、ああ景清《かげきよ》を女にしたらやっぱりこんなものじゃなかろうかと思ってね。本当は感心しましたよ。どういう訳で景清を思い出したかと云うとね。ただ双方とも盲目《めくら》だからと云うばかりじゃない。どうもその女の態度がね……」
 父は考えていた。父の筋向うに坐《すわ》っていた赭顔《あからがお》の客が、「全く気込《きごみ》が似ているからですね」とさもむずかしい謎《なぞ》でも解くように云った。
「全く気込です」と父はすぐ承服した。自分はこれで父の話が結末に来たのかと思って、「なるほどそれは面白い御話です」と全体を批評するような調子で云った。すると父は「まだ後《あと》があるんだ。後の方がまだ面白い。ことに二郎のような若い者が聞くと」とつけ加えた。

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