2008年11月11日火曜日

二十六

 自分の興味が強くなった頃、彼の興味は自分より一層強くなった。自分の興味がやや衰えかけると、彼の興味はますます強くなって来た。彼は元来がぶっきらぼうの男だけれども、胸の奥には人一倍|優《やさ》しい感情をもっていた。そうして何か事があると急に熱する癖があった。
 自分はすでに院内をぶらぶらするほどに回復した彼が、なぜ「あの女」の室《へや》へ入り込まないかを不審に思った。彼はけっして自分のような羞恥家《はにかみや》ではなかった。同情の言葉をかけに、一遍会った「あの女」の病室へ見舞に行くぐらいの事は、彼の性質から見て何でもなかった。自分は「そんなにあの女が気になるなら、直《じか》に行って、会って慰めてやれば好いじゃないか」とまで云った。彼は「うん、実は行きたいのだが……」と渋《しぶ》っていた。実際これは彼の平生にも似合わない挨拶《あいさつ》であった。そうしてその意味は解らなかった。解らなかったけれども、本当は彼の行かない方が、自分の希望であった。
 ある時自分は「あの女」の看護婦から――自分とこの美しい看護婦とはいつの間にか口を利《き》くようになっていた。もっともそれは彼女が例の柱に倚《よ》りかかって、その前を通る自分の顔を見上げるときに、時候の挨拶を取換《とりか》わすぐらいな程度に過ぎなかったけれども、――とにかくこの美しい看護婦から自分は運勢早見《うんせいはやみ》なんとかいう、玩具《おもちゃ》の占《うらな》いの本みたようなものを借りて、三沢の室でそれをやって遊んだ。
 これは赤と黒と両面に塗り分けた碁石《ごいし》のような丸く平たいものをいくつか持って、それを眼を眠《ねむ》ったまま畳の上へ並べて置いて、赤がいくつ黒がいくつと後から勘定《かんじょう》するのである。それからその数字を一つは横へ、一つは竪《たて》に繰って、両方が一点に会《かい》したところを本で引いて見ると、辻占《つじうら》のような文句が出る事になっていた。
 自分が眼を閉じて、石を一つ一つ畳の上に置いたとき、看護婦は赤がいくつ黒がいくつと云いながら占《うらな》いの文句を繰ってくれた。すると、「この恋もし成就《じょうじゅ》する時は、大いに恥を掻《か》く事あるべし」とあったので、彼女は読みながら吹き出した。三沢も笑った。
「おい気をつけなくっちゃいけないぜ」と云った。三沢はその前から「あの女」の看護婦に自分が御辞儀《おじぎ》をするところが変だと云って、始終《しじゅう》自分に調戯《からか》っていたのである。
「君こそ少し気をつけるが好い」と自分は三沢に竹箆返《しっぺいがえ》しを喰わしてやった。すると三沢は真面目《まじめ》な顔をして「なぜ」と反問して来た。この場合この強情な男にこれ以上いうと、事が面倒になるから自分は黙っていた。
 実際自分は三沢が「あの女」の室《へや》へ出入《でいり》する気色《けしき》のないのを不審に思っていたが一方ではまた彼の熱しやすい性質を考えて、今まではとにかく、これから先彼がいつどう変返《へんがえ》るかも知れないと心配した。彼はすでに下の洗面所まで行って、朝ごとに顔を洗うぐらいの気力を回復していた。
「どうだもう好い加減に退院したら」
 自分はこう勧めて見た。そうして万一金銭上の関係で退院を躊躇《ちゅうちょ》するようすが見えたら、彼が自宅から取り寄せる手間《てま》と時間を省《はぶ》くため、自分が思い切って一つ岡田に相談して見ようとまで思った。三沢は自分の云う事には何の返事も与えなかった。かえって反対に「いったい君はいつ大阪を立つつもりだ」と聞いた。

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