2008年11月6日木曜日

三十七

 自分は先刻《さっき》から少しも寝なかった。小用《こよう》に立って、一本の紙巻を吹かす間にもいろいろな事を考えた。それが取りとめもなく雑然と一度に来るので、自分にも何が主要の問題だか捕えられなかった。自分は燐寸を擦って煙草を呑んでいる事さえ時々忘れた。しかもそこに気がついて、再び吸口を唇《くちびる》に銜《くわ》える時の煙の無味《まず》さはまた特別であった。
 自分の頭の中には、今見て来た正体《しょうたい》の解らない黒い空が、凄《すさ》まじく一様に動いていた。それから母や兄のいる三階の宿が波を幾度となく被《かぶ》って、くるりくるりと廻り出していた。それが片づかないうちに、この部屋の中に寝ている嫂の事がまた気になり出した。天災とは云え二人でここへ泊った言訳をどうしたものだろうと考えた。弁解してから後《あと》、兄の機嫌《きげん》をどうして取り直したものだろうとも考えた。同時に今日嫂といっしょに出て、滅多《めった》にないこんな冒険を共にした嬉《うれ》しさがどこからか湧《わ》いて出た。その嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯《つなみ》も母も兄もことごとく忘れた。するとその嬉しさがまた俄然《がぜん》として一種の恐ろしさに変化した。恐ろしさと云うよりも、むしろ恐ろしさの前触《まえぶれ》であった。どこかに潜伏しているように思われる不安の徴候であった。そうしてその時は外面《そと》を狂い廻る暴風雨《あらし》が、木を根こぎにしたり、塀《へい》を倒したり、屋根瓦を捲《め》くったりするのみならず、今薄暗い行灯《あんどん》[#ルビの「あんどん」は底本では「あんどう」]の下《もと》で味のない煙草《たばこ》を吸っているこの自分を、粉微塵《こみじん》に破壊する予告のごとく思われた。
 自分がこんな事をぐるぐる考えているうちに、蚊帳《かや》の中に死人のごとくおとなしくしていた嫂《あによめ》が、急に寝返《ねがえり》をした。そうして自分に聞えるように長い欠伸《あくび》をした。
「姉さんまだ寝ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂に聞いた。
「ええ、だってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか」
「僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」
「そうよ、そんな事を先刻《さっき》下女が云ったわね」
「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」
「妾《あたし》も先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさか浪《なみ》は這入《はい》らないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋《わらや》ぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯が来てあすこ界隈《かいわい》をすっかり攫《さら》って行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」
「なぜ」
「なぜって、妾そんな物凄《ものすご》いところが見たいんですもの」
「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。すると嫂は真面目に答えた。
「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊《くく》ったり咽喉《のど》を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌《きらい》よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
 自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮《こうふん》から来たに違いないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」
「本に出るか芝居でやるか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘《うそ》だと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」
「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫《なだ》めるごとく云った。
「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。

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