2008年11月11日火曜日

十四

 自分は別に行く所もなかったので、三沢の泊った宿の名を聞いて、そこへ俥《くるま》で乗りつけた。看護婦はつい近くのように云ったが、始めての自分にはかなりの道程《みちのり》と思われた。
 その宿には玄関も何にもなかった。這入《はい》ってもいらっしゃいと挨拶《あいさつ》に出る下女もなかった。自分は三沢の泊ったという二階の一間《ひとま》に通された。手摺《てすり》の前はすぐ大きな川で、座敷から眺《なが》めていると、大変|涼《すず》しそうに水は流れるが、向《むき》のせいか風は少しも入らなかった。夜《よ》に入《い》って向側に点ぜられる灯火のきらめきも、ただ眼に少しばかりの趣《おもむき》を添えるだけで、涼味という感じにはまるでならなかった。
 自分は給仕の女に三沢の事を聞いて始めて知った。彼は二日《ふつか》ここに寝たあげく、三日目に入院したように記憶していたが実はもう一日前の午後に着いて、鞄《かばん》を投げ込んだまま外出して、その晩の十時過に始めて帰って来たのだそうである。着いた時には五六人の伴侶《つれ》がいたが、帰りにはたった一人になっていたと下女は告げた。自分はその五六人の伴侶の何人《なんびと》であるかについて思い悩んだ。しかし想像さえ浮ばなかった。
「酔ってたかい」と自分は下女に聞いて見た。そこは下女も知らなかった。けれども少し経《た》って吐《は》いたから酔っていたんだろうと答えた。
 自分はその夜《よ》蚊帳《かや》を釣って貰って早く床《とこ》に這入《はい》った。するとその蚊帳に穴があって、蚊《か》が二三|疋《びき》這入って来た。団扇《うちわ》を動かして、それを払《はら》い退《の》けながら寝ようとすると、隣の室《へや》の話し声が耳についた。客は下女を相手に酒でも呑んでいるらしかった。そうして警部だとかいう事であった。自分は警部の二字に多少の興味があった。それでその人の話を聞いて見る気になったのである。すると自分の室を受持っている下女が上って来て、病院から電話だと知らせた。自分は驚いて起き上った。
 電話の相手は三沢の看護婦であった。病人の模様でも急に変ったのかと思って心配しながら用事を聞いて見ると病人から、明日《あした》はなるべく早く来てくれ、退屈で困るからという伝言に過ぎなかった。自分は彼の病気がはたしてそう重くないんだと断定した。「何だそんな事か、そういうわがままはなるべく取次《とりつ》がないが好い」と叱りつけるように云ってやったが、後で看護婦に対して気の毒になったので、「しかし行く事は行くよ。君が来てくれというなら」とつけ足《た》して室へ帰った。
 下女はいつ気がついたか、蚊帳の穴を針と糸で塞《ふさ》いでいた。けれどもすでに這入っている蚊はそのままなので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の辺《あたり》でぶうんと云う小《ちいさ》い音がした。それでもうとうとと寝た。すると今度は右の方の部屋でする話声で眼が覚《さ》めた。聞いているとやはり男と女の声であった。自分はこっち側《がわ》に客は一人もいないつもりでいたので、ちょっと驚かされた。しかし女が繰返《くりかえ》して、「そんならもう帰して貰いますぜ」というような言葉を二三度用いたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも帰って来たのだろうと推察してまた眠りに落ちた。
 それからもう一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上ったのが、まだ川の面《おもて》に白い靄《もや》が薄く見える頃だったから、正味《しょうみ》寝たのは何時間にもならなかった。

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