2008年11月6日木曜日

 父はその年始めて誰かから朝貌《あさがお》を作る事を教わって、しきりに変った花や葉を愛玩《あいがん》していた。変ったと云っても普通のものがただ縮れて見立《みだて》がなくなるだけだから、宅中《うちじゅう》でそれを顧みるものは一人もなかった。ただ父の熱心と彼の早起と、いくつも並んでいる鉢《はち》と、綺麗《きれい》な砂と、それから最後に、厭《いや》に拗《す》ねた花の様《さま》や葉の形に感心するだけに過ぎなかった。
 父はそれらを縁側《えんがわ》へ並べて誰を捉《つら》まえても説明を怠《おこた》らなかった。
「なるほど面白いですなあ」と正直な兄までさも感心したらしく御世辞《おせじ》を余儀なくされていた。
 父は常に我々とはかけ隔《へだた》った奥の二間《ふたま》を専領《せんりょう》していた。簀垂《すだれ》のかかったその縁側に、朝貌はいつでも並べられた。したがって我々は「おい一郎」とか「おいお重」とか云って、わざわざそこへ呼び出されたものであった。自分は兄よりも遥《はるか》に父の気に入るような賛辞を呈して引き退《さ》がった。そうして父の聞えない所で、「どうもあんな朝貌を賞《ほ》めなけりゃならないなんて、実際恐れ入るね。親父《おやじ》の酔興にも困っちまう」などと悪口を云った。
 いったい父は講釈好《こうしゃくずき》の説明好であった。その上時間に暇があるから、誰でも構わず、号鈴《ベル》を鳴らして呼寄せてはいろいろな話をした。お重などは呼ばれるたびに、「兄さん今日は御願だから代りに行ってちょうだい」と云う事がよくあった。そのお重に父はまた解り悪《にく》い事を話すのが大好だった。
 自分達が大阪から帰ったとき朝貌《あさがお》はまだ咲いていた。しかし父の興味はもう朝貌を離れていた。
「どうしました。例の変り種は」と自分が聞いて見ると、父は苦笑いをして「実は朝貌もあまり思わしくないから、来年からはもう止《や》めだ」と答えた。自分はおおかた父の誇りとして我々に見せた妙な花や葉が、おそらくその道の人から鑑定すると、成っていなかったんだろうと判断して、茶の間で大きな声を立てて笑った。すると例のお重とお貞さんが父を弁護した。
「そうじゃ無いのよ。あんまり手数《てすう》がかかるんで、御父さんも根気が尽きちまったのよ。それでも御父さんだからあれだけにできたんですって、皆《みん》な賞《ほ》めていらしったわ」
 母と嫂《あによめ》は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲《あざ》けるように笑い出した。すると傍《そば》にいた小さな芳江までが嫂と同じように意味のある笑い方をした。
 こんな瑣事《さじ》で日を暮しているうちに兄と嫂の間柄は自然自分達の胸を離れるようになった。自分はかねて約束した通り、兄の前へ出て嫂の事を説明する必要がなくなったような気がした。母が東京へ帰ってからゆっくり話そうと云ったむずかしそうな事件も母の口から容易に出ようとも思えなかった。最後にあれほど嫂について智識を得たがっていた兄が、だんだん冷静に傾いて来た。その代り父母や自分に対しても前ほどは口を利《き》かなくなった。暑い時でもたいていは書斎へ引籠《ひきこも》って何か熱心にやっていた。自分は時々嫂に向って、「兄さんは勉強ですか」と聞いた。嫂は「ええおおかた来学年の講義でも作ってるんでしょう」と答えた。自分はなるほどと思って、その忙しさが永く続くため、彼の心を全然そっちの方へ転換させる事ができはしまいかと念じた。嫂は平生の通り淋《さび》しい秋草のようにそこらを動いていた。そうして時々|片靨《かたえくぼ》を見せて笑った。

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