2008年11月6日木曜日

十一

 それから二三日して、父の所へ二人ほど客が来た。父は生来《せいらい》交際好《こうさいずき》の上に、職業上の必要から、だいぶ手広く諸方へ出入していた。公《おおやけ》の務《つとめ》を退いた今日《こんにち》でもその惰性だか影響だかで、知合間《しりあいかん》の往来《おうらい》は絶える間もなかった。もっとも始終《しじゅう》顔を出す人に、それほど有名な人も勢力家も見えなかった。その時の客は貴族院の議員が一人と、ある会社の監査役が一人とであった。
 父はこの二人と謡《うたい》の方の仲善《なかよし》と見えて、彼らが来るたびに謡をうたって楽《たのし》んだ。お重は父の命令で、少しの間|鼓《つづみ》の稽古《けいこ》をした覚《おぼえ》があるので、そう云う時にはよく客の前へ呼び出されて鼓を打った。自分はその高慢ちきな顔をまだ忘れずにいる。
「お重お前の鼓は好いが、お前の顔はすこぶる不味《まず》いね。悪い事は云わないから、嫁に行った当座はけっして鼓を御打ちでないよ。いくら御亭主が謡気狂《うたいきちがい》でもああ澄まされた日にゃ、愛想を尽かされるだけだから」とわざわざ罵《のの》しった事がある。すると傍《そば》に聞いていたお貞さんが眼を丸くして、「まあひどい事をおっしゃる事、ずいぶんね」と云ったので、自分も少し言い過ぎたかと思った。けれども烈《はげ》しいお重は平生に似ず全く自分の言葉を気にかけないらしかった。「兄さんあれでも顔の方はまだ上等なのよ。鼓と来たらそれこそ大変なの。妾《あたし》謡の御客があるほど厭《いや》な事はないわ」とわざわざ自分に説明して聞かせた。お重の顔ばかりに注意していた自分は、彼女の鼓がそれほど不味いとはそれまで気がつかなかった。
 その日も客が来てから一時間半ほどすると予定の通り謡が始まった。自分はやがてまたお重が呼び出される事と思って、調戯《からかい》半分茶の間の方に出て行った。お重は一生懸命に会席膳《かいせきぜん》を拭いていた。
「今日はポンポン鳴らさないのか」と自分がことさらに聞くと、お重は妙にとぼけた顔をして、立っている自分を見上げた。
「だって今御膳が出るんですもの。忙しいからって、断ったのよ」
 自分は台所や茶の間のごたごたした中で、ふざけ過ぎて母に叱られるのも面白くないと思って、また室《へや》へ取って返した。
 夕食後ちょっと散歩に出て帰って来ると、まだ自分の室《へや》に這入《はい》らない先から母に捉《つら》まった。
「二郎ちょうど好いところへ帰って来ておくれだ。奥へ行って御父さんの謡《うたい》を聞いていらっしゃい」
 自分は父の謡を聞き慣れているので、一番ぐらい聴くのはさほど厭とも思わなかった。
「何をやるんです」と母に質問した。母は自分とは正反対に謡がまた大嫌《だいきら》いだった。「何だか知らないがね。早くいらっしゃいよ。皆さんが待っていらっしゃるんだから」と云った。
 自分は委細承知して奥へ通ろうとした。すると暗い縁側《えんがわ》の所にお重がそっと立っていた。自分は思わず「おい……」と大きな声を出しかけた。お重は急に手を振って相図のように自分の口を塞《ふさ》いでしまった。
「なぜそんな暗い所に一人で立っているんだい」と自分は彼女の耳へ口を付けて聞いた。彼女はすぐ「なぜでも」と答えた。しかし自分がその返事に満足しないでやはり元の所に立っているのを見て、「先刻《さっき》から、何遍も出て来い出て来いって催促するのよ。だから御母さんに断って、少し加減が悪い事にしてあるのよ」
「なぜまた今日に限って、そんなに遠慮するんだい」
「だって妾《あたし》鼓《つづみ》なんか打つのはもう厭《いや》になっちまったんですもの、馬鹿らしくって。それにこれからやるのなんかむずかしくってとてもできないんですもの」
「感心にお前みたような女でも謙遜《けんそん》の道は少々心得ているから偉いね」と云い放ったまま、自分は奥へ通った。

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