2008年11月10日月曜日

二十六

 その明くる朝は起きた時からあいにく空に斑《ふ》が見えた。しかも風さえ高く吹いて例の防波堤《ぼうはてい》に崩《くだ》ける波の音が凄《すさま》じく聞え出した。欄干《らんかん》に倚《よ》って眺めると、白い煙が濛々《もうもう》と岸一面を立て籠《こ》めた。午前は四人とも海岸に出る気がしなかった。
 午《ひる》過ぎになって、空模様は少し穏かになった。雲の重なる間から日脚《ひあし》さえちょいちょい光を出した。それでも漁船が四五|艘《そう》いつもより早く楼前《ろうぜん》の掘割《ほりわり》へ漕《こ》ぎ入れて来た。
「気味が悪いね。何だか暴風雨《あらし》でもありそうじゃないか」
 母はいつもと違う空を仰いで、こう云いながらまた元の座敷へ引返《ひっかえ》して来た。兄はすぐ立ってまた欄干へ出た。
「何大丈夫だよ。大した事はないにきまっている。御母さん僕が受け合いますから出かけようじゃありませんか。俥《くるま》もすでに誂《あつら》えてありますから」
 母は何とも云わずに自分の顔を見た。
「そりゃ行っても好いけれど、行くなら皆《みん》なでいっしょに行こうじゃないか」
 自分はその方が遥《はるか》に楽《らく》であった。でき得るならどうか母の御供をして、和歌山行をやめたいと考えた。
「じゃ僕達もいっしょにその切り開いた山道の方へ行って見ましょうか」と云いながら立ちかけた。すると嶮《けわ》しい兄の眼がすぐ自分の上に落ちた。自分はとうていこれでは約束を履行《りこう》するよりほかに道がなかろうとまた思い返した。
「そうそう姉さんと約束があったっけ」
 自分は兄に対して、つい空惚《そらとぼ》けた挨拶《あいさつ》をしなければすまなくなった。すると母が今度は苦《にが》い顔をした。
「和歌山はやめにおしよ」
 自分は母と兄の顔を見比べてどうしたものだろうと躊躇《ちゅうちょ》した。嫂《あによめ》はいつものように冷然としていた。自分が母と兄の間に迷っている間、彼女はほとんど一言《いちごん》も口にしなかった。
「直《なお》御前二郎に和歌山へ連れて行って貰うはずだったね」と兄が云った時、嫂はただ「ええ」と答えただけであった。母が「今日はお止《よ》しよ」と止《と》めた時、嫂はまた「ええ」と答えただけであった。自分が「姉さんどうします」と顧《かえり》みた時は、また「どうでも好いわ」と答えた。
 自分はちょっと用事に下へ降りた。すると母がまた後《あと》から降りて来た。彼女の様子は何だかそわそわしていた。
「御前本当に直と二人で和歌山へ行く気かい」
「ええ、だって兄さんが承知なんですもの」
「いくら承知でも御母さんが困るから御止《およ》しよ」
 母の顔のどこかには不安の色が見えた。自分はその不安の出所《でどころ》が兄にあるのか、または嫂と自分にあるか、ちょっと判断に苦しんだ。
「なぜです」と聞いた。
「なぜですって、御前と直と行くのはいけないよ」
「兄さんに悪いと云うんですか」
 自分は露骨にこう聞いて見た。
「兄さんに悪いばかりじゃないが……」
「じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか」
 自分の問は前よりなお露骨であった。母は黙ってそこに佇《たた》ずんでいた。自分は母の表情に珍らしく猜疑《さいぎ》の影を見た。

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