2008年11月6日木曜日

四十三

「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳《くわし》く話したら好いじゃないか」
 兄は苦《にが》り切って団扇《うちわ》の絵を見つめていた。自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺《うかが》った。自分からこういうと兄を軽蔑《けいべつ》するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気《おとなげ》を欠いた稚気《ちき》さえ現われていた。今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地《けんち》を具《そな》えているつもりである。けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向《むこう》の隙《すき》を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏《まつ》わっていた。
 自分はしばらく兄の様子を見ていた。そうしてこれは与《くみ》しやすいという心が起った。彼は癇癪《かんしゃく》を起している。彼は焦《じ》れ切っている。彼はわざとそれを抑えようとしている。全く余裕のないほど緊張している。しかし風船球のように軽く緊張している。もう少し待っていれば自分の力で破裂するか、または自分の力でどこかへ飛んで行くに相違ない。――自分はこう観察した。
 嫂《あによめ》が兄の手に合わないのも全くここに根ざしているのだと自分はこの時ようやく勘づいた。また嫂として存在するには、彼女の遣口《やりくち》が一番巧妙なんだろうとも考えた。自分は今日《こんにち》までただ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼《きがね》したり、時によっては恐れ入ったりしていた。しかし昨日《きのう》一日一晩嫂と暮した経験は図《はか》らずもこの苦々《にがにが》しい兄を裏から甘く見る結果になって眼前に現われて来た。自分はいつ嫂から兄をこう見ろと教わった覚はなかった。けれども兄の前へ出て、これほど度胸の据《すわ》った事もまたなかった。自分は比較的すまして、団扇を見つめている兄の額のあたりをこっちでも見つめていた。
 すると兄が急に首を上げた。
「二郎何とか云わないか」と励《はげ》しい言葉を自分の鼓膜《こまく》に射込んだ。自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。
「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目《きまじめ》に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉《のど》まで出かかったものも、辟易《へきえき》して引込んじまいますから」
 自分がこう云うと、兄はさすがに一見識《ひとけんしき》ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急《せっかち》の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。
「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直《じき》です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」
「それでも好《い》い」
 兄は落ちついて答えた。今までの彼の癇癪《かんしゃく》を自分の信用で吹き払い得たごとくに。
「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯《うな》ずいて見せたが、自分が敷居を跨《また》ぐ拍子《ひょうし》に「おい二郎」とまた呼び戻した。
「詳《くわし》い事は追って東京で聞くとして、ただ一言《ひとこと》だけ要領を聞いておこうか」
「姉さんについて……」
「無論」
「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」
 自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。けれども何にも云わなかった。自分はそれぎり席を立ってしまった。

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