2008年11月6日木曜日

 兄の顔には孤独の淋《さみ》しみが広い額を伝わって瘠《こ》けた頬に漲《みなぎ》っていた。
「二郎おれは昔から自然が好きだが、つまり人間と合わないので、やむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな」
 自分は兄が気の毒になった。「そんな事はないでしょう」と一口に打ち消して見た。けれどもそれで兄の満足を買う訳には行かなかった。自分はすかさずまたこう云った。
「やっぱり家《うち》の血統にそう云う傾きがあるんですよ。御父さんは無論、僕でも兄さんの知っていらっしゃる通りですし、それにね、あのお重がまた不思議と、花や木が好きで、今じゃ山水画などを見ると感に堪《た》えたような顔をして時々眺めている事がありますよ」
 自分はなるべく兄を慰めようとして、いろいろな話をしていた。そこへお貞さんが下から夕食の報知《しらせ》に来た。自分は彼女に、「お貞さんは近頃|嬉《うれ》しいと見えて妙ににこにこしていますね」と云った。自分が大阪から帰るや否や、お貞さんは暑い下女室《げじょべや》の隅《すみ》に引込んで容易に顔を出さなかった。それが大阪から出したみんなの合併《がっぺい》絵葉書《えはがき》の中《うち》へ、自分がお貞さん宛《あて》に「おめでとう」と書いた五字から起ったのだと知れて家内中大笑いをした。そのためか一つ家にいながらお貞さんは変に自分を回避した。したがって顔を合わせると自分はことさらに何か云いたくなった。
「お貞さん何が嬉《うれ》しいんですか」と自分は面白半分追窮するように聞いた。お貞さんは手を突いたなり耳まで赤くなった。兄は籐椅子《といす》の上からお貞さんを見て、「お貞さん、結婚の話で顔を赤くするうちが女の花だよ。行って見るとね、結婚は顔を赤くするほど嬉しいものでもなければ、恥ずかしいものでもないよ。それどころか、結婚をして一人の人間が二人になると、一人でいた時よりも人間の品格が堕落する場合が多い。恐ろしい目に会う事さえある。まあ用心が肝心《かんじん》だ」と云った。
 お貞さんには兄の意味が全く通じなかったらしい。何と答えて好いか解らないので、むしろ途方《とほう》に暮れた顔をしながら涙を眼にいっぱい溜《た》めていた。兄はそれを見て、「お貞さん余計な事を話して御気の毒だったね。今のは冗談だよ。二郎のような向う見ずに云って聞かせる事を、ついお貞さん見たいな優《やさ》しい娘さんに云っちまったんだ。全くの間違だ。勘弁《かんべん》してくれたまえ。今夜は御馳走《ごちそう》があるかね。二郎それじゃ御膳《ごぜん》を食べに行こう」と云った。
 お貞さんは兄が籐椅子から立ち上るのを見るや否や、すぐ腰を立てて一足先へ階子段《はしごだん》をとんとんと下りて行った。自分は兄と肩を比《なら》べて室《へや》を出にかかった。その時兄は自分を顧みて「二郎、この間の問題もそれぎりになっていたね。つい書物や講義の事が忙《いそが》しいものだから、聞こう聞こうと思いながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴《き》くつもりだから、どうか話してくれ」と云った。自分は「この間の問題とは何ですか」と空惚《そらとぼ》けたかった。けれどもそんな勇気はこの際出る余裕がなかったから、まず体裁の好い挨拶《あいさつ》だけをしておいた。
「こう時間が経《た》つと、何だか気の抜けた麦酒《ビール》見たようで、僕には話し悪《にく》くなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束だから聴《き》くとおっしゃればやらん事もありませんがね。しかし兄さんのいわゆる生き甲斐《がい》のある秋にもなったものだから、そんなつまらない事より、まず第一に遠足でもしようじゃありませんか」
「うん遠足も好かろうが……」
 二人はこんな話を交換しながら、食卓の据《す》えてある下の室《へや》に入った。そうしてそこに芳江を傍《そば》に引きつけている嫂《あによめ》を見出した。

0 件のコメント: