2008年11月6日木曜日

 自分は三沢へ端書《はがき》を書いた後《あと》で、風呂から出立《でたて》の頬に髪剃《かみそり》をあてようと思っていた。お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。お重は嗽茶碗《うがいぢゃわん》どころの騒ぎではないらしかった。それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨《ふく》れていた。自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙《ぞうげ》の柄《え》のついた髪剃《かみそり》を並べて、熱湯で濡《ぬ》らした頬をわざと滑稽《こっけい》に膨《ふく》らませた。
 自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸《シャボン》の泡で顔中を真白にしていると、先刻《さっき》から傍《そば》に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗《あん》にこの悲鳴を予期していたのである。そこでますます頬《ほっ》ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。お重はそれを見て業腹《ごうはら》だか何だかますます騒々しい声を立てた。しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」
「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂《ねえ》さんはいくらあなたが贔屓《ひいき》にしたって、もともと他人じゃありませんか」
 自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆《のぼ》せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家《よそ》から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」
「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方《かた》をお貰《もら》いなすったら好いじゃありませんか」
 自分は平手《ひらて》でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。けれども家中騒ぎ廻られるのが怖《こわ》いんで、容易に手は出せなかった。
「じゃお前も早く兄さんみたような学者を探《さが》して嫁に行ったら好かろう」
 お重はこの言葉を聞くや否や、急に掴《つか》みかかりかねまじき凄《すさま》じい勢いを示した。そうして涙の途切《とぎ》れ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんより後《おく》れたので、それでこんなに愚弄《ぐろう》されるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。自分も固《もと》より彼女の相手になり得るほどの悪口家《わるくちや》であった。けれども最後にとうとう根気負《こんきまけ》がして黙ってしまった。それでも彼女は自分の傍《そば》を去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌《しゃべ》り廻してやまなかった。その中《うち》で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と嫂《あによめ》とを結びつけて当て擦《こす》るという悪い意地であった。自分はそれが何より厭《いや》であった。自分はその時心の中《うち》で、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女《なんにょ》の愛がどうだのと囀《さえず》る女を、たった一人|後《あと》に取り残してやりたい気がした。それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目《まじめ》に考えても見た。
 自分は今でも雨に叩《たた》かれたようなお重の仏頂面《ぶっちょうづら》を覚えている。お重はまた石鹸を溶いた金盥《かなだらい》の中に顔を突込んだとしか思われない自分の異《い》な顔を、どうしても忘れ得ないそうである。

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