2008年11月12日水曜日

 お兼《かね》さんの態度は明瞭《めいりょう》で落ちついて、どこにも下卑《げび》た家庭に育ったという面影《おもかげ》は見えなかった。「二三日前《にさんちまえ》からもうおいでだろうと思って、心待《こころまち》に御待申しておりました」などと云って、眼の縁《ふち》に愛嬌《あいきょう》を漂《ただ》よわせるところなどは、自分の妹よりも品《ひん》の良《い》いばかりでなく、様子も幾分か立優《たちまさ》って見えた。自分はしばらくお兼さんと話しているうちに、これなら岡田がわざわざ東京まで出て来て連れて行ってもしかるべきだという気になった。
 この若い細君がまだ娘盛《むすめざかり》の五六年|前《ぜん》に、自分はすでにその声も眼鼻立《めはなだち》も知っていたのではあるが、それほど親しく言葉を換《か》わす機会もなかったので、こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴々《なれなれ》しい応対もできなかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対するごとく、畏《かしこ》まった言語をぽつぽつ使った。岡田はそれがおかしいのか、または嬉《うれ》しいのか、時々自分の顔を見て笑った。それだけなら構わないが、折節《おりせつ》はお兼さんの顔を見て笑った。けれどもお兼さんは澄ましていた。お兼さんがちょっと用があって奥へ立った時、岡田はわざと低い声をして、自分の膝《ひざ》を突っつきながら、「なぜあいつに対して、そう改まってるんです。元から知ってる間柄《あいだがら》じゃありませんか」と冷笑《ひやか》すような句調《くちょう》で云った。
「好い奥さんになったね。あれなら僕が貰やよかった」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけない」と云って岡田は一層大きな声を出して笑った。やがて少し真面目《まじめ》になって、「だってあなたはあいつの悪口をお母さんに云ったっていうじゃありませんか」と聞いた。
「なんて」
「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪|下《くだ》りまで引っ張って行くなんて。もう少し待っていればおれが相当なのを見《め》つけてやるのにって」
「そりゃ君昔の事ですよ」
 こうは答えたようなものの、自分は少し恐縮した。かつちょっと狼狽《ろうばい》した。そうして先刻《さっき》岡田が変な眼遣《めづかい》をして、時々細君の方を見た意味をようやく理解した。
「あの時は僕も母から大変叱られてね。おまえのような書生に何が解るものか。岡田さんの事はお父さんと私《わたし》とで当人|達《たち》に都合の好いようにしたんだから、余計な口を利《き》かずに黙って見ておいでなさいって。どうも手痛《てひど》くやられました」
 自分は母から叱られたという事実が、自分の弁解にでもなるような語気で、その時の様子を多少誇張して述べた。岡田はますます笑った。
 それでもお兼さんがまた座敷へ顔を出した時、自分は多少きまりの悪い思をしなければならなかった。人の悪い岡田はわざわざ細君に、「今|二郎《じろう》さんがおまえの事を大変|賞《ほ》めて下すったぜ。よく御礼を申し上げるが好い」と云った。お兼さんは「あなたがあんまり悪口をおっしゃるからでしょう」と夫《おっと》に答えて、眼では自分の方を見て微笑した。
 夕飯前《ゆうはんまえ》に浴衣《ゆかた》がけで、岡田と二人岡の上を散歩した。まばらに建てられた家屋や、それを取り巻く垣根が東京の山の手を通り越した郊外を思い出させた。自分は突然大阪で会合しようと約束した友達の消息が気になり出した。自分はいきなり岡田に向って、「君の所にゃ電話はないんでしょうね」と聞いた。「あの構《かまえ》で電話があるように見えますかね」と答えた岡田の顔には、ただ機嫌《きげん》の好《い》い浮き浮きした調子ばかり見えた。

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