2008年11月6日木曜日

四十

 兄は三階の日に遠い室《へや》で例の黒い光沢《つや》のある頭を枕《まくら》に着けて仰向《あおむ》きになっていた。けれども眠ってはいなかった。むしろ充血した眼を見張るように緊張して天井《てんじょう》を見つめていた。彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなりその血走った眼を自分と嫂に注いだ。自分は兼《かね》てからその眼つきを予想し得なかったほど兄を知らない訳でもなかった。けれども室の入口で嫂と相並んで立ちながら、昨夕《ゆうべ》まんじりともしなかったと自白しているような彼の赤くて鋭い眼つきを見た時は、少し驚かされた。自分はこういう場合の緩和剤《かんわざい》として例《いつも》の通り母を求めた。その母は座敷の中にも縁側にもどこにも見当らなかった。
 自分が彼女を探《さが》しているうちに嫂は兄の枕元に坐って挨拶《あいさつ》をした。
「ただいま」
 兄は何とも答えなかった。嫂はまた坐ったなりそこを動かなかった。自分は勢いとして口を開くべく余儀なくされた。
「昨夕こっちは大変な暴風雨《あらし》でしたってね」
「うんずいぶんひどい風だった」
「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」
 これは嫂の言葉であった。兄はしばらく彼女の顔を眺めていた。それから徐《おもむ》ろに答えた。
「いやそうでもない。家に故障はなかったはずだ」
「じゃ。無理に帰れば帰れたのね」
 嫂はこう云って自分を顧みた。自分は彼女よりもむしろ兄の方に向いた。
「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じないんですもの」
「そうかも知れない。昨日《きのう》は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」
「夜中《よなか》に宅《うち》が揺れやしなくって」
 これも嫂《あによめ》の兄に聞いた問であった。今度は兄がすぐ答えた。
「揺れた。お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた」
 自分は兄の眼色の険悪な割合に、それほど殺気を帯びていない彼の言語動作をようよう確め得た時やっと安心した。彼は自分の性急《せっかち》に比べると約五倍がたの癇癪持《かんしゃくもち》であった。けれども一種|天賦《てんぷ》の能力があって、時にその癇癪を巧《たくみ》に殺す事ができた。
 その内に明神様《みょうじんさま》へ御参りに行った母が帰って来た。彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような色をしてくれた。
「よく早く帰れて好かったね。――まあ昨夕《ゆうべ》の恐ろしさったら、そりゃ御話にも何にもならないんだよ、二郎。この柱がぎいぎいって鳴るたんびに、座敷が右左に動《いご》くんだろう。そこへ持って来て、あの浪《なみ》の音がね。――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ……」
 母は昨夕の暴風雨《あらし》をひどく怖《こわ》がった。ことにその聯想《れんそう》から出る、防波堤《ぼうはてい》を砕きにかかる浪の音を嫌《きら》った。
「もうもう和歌の浦も御免《ごめん》。海も御免。慾も得も要らないから、早く東京へ帰りたいよ」
 母はこう云って眉《まゆ》をひそめた。兄は肉のない頬へ皺《しわ》を寄せて苦笑した。
「二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい」と聞いた。
 自分は和歌山の宿の名を挙げて答えた。
「好い宿かい」
「何だかかんだか、ただ暗くって陰気なだけです。ねえ姉さん」
 その時兄は走るような眼を嫂に転じた。
 嫂はただ自分の顔を見て「まるでお化《ばけ》でも出そうな宅《うち》ね」と云った。
 日の夕暮に自分は嫂と階段の下で出逢《であ》った。その時自分は彼女に「どうです、兄さんは怒ってるんでしょうか」と聞いて見た。嫂は「どうだか腹の中はちょっと解らないわ」と淋《さび》しく笑いながら上へ昇って行った。

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