2008年11月6日木曜日

十三

 父は交際家だけあって、こういう妙な話をたくさん頭の中にしまっていた。そうして客でもあると、献酬《けんしゅう》の間によくそれを臨機応変に運用した。多年父の傍《そば》に寝起《ねおき》している自分にもこの女景清《おんなかげきよ》の逸話は始めてであった。自分は思わず耳を傾けて父の顔を見た。
「ついこの間の事で、また実際あった事なんだから御話をするが、その発端《ほったん》はずっと古い。古いたって何も源平時代から説き出すんじゃないからそこは御安心だが、何しろ今から二十五六年前、ちょうど私の腰弁時代とでも云いましょうかね……」
 父はこういう前置をして皆《みん》なを笑わせた後《あと》で本題に這入《はい》った。それは彼の友達と云うよりもむしろずっと後輩に当る男の艶聞《えんぶん》見たようなものであった。もっとも彼は遠慮して名前を云わなかった。自分は家《うち》へ出入《ではい》る人の数々について、たいていは名前も顔も覚えていたが、この逸話をもった男だけはいくら考えてもどんな想像も浮かばなかった。自分は心のうちで父は今|表向《おもてむき》多分この人と交際しているのではなかろうと疑ぐった。
 何しろ事はその人の二十《はたち》前後に起ったので、その時当人は高等学校へ這入り立てだとか、這入ってから二年目になるとか、父ははなはだ瞹眛《あいまい》な説明をしていたが、それはどっちにしたって、我々の気にかかるところではなかった。
「その人は好い人間だ。好い人間にもいろいろあるが、まあ好い人間だ。今でもそうだから、廿歳《はたち》ぐらいの時分は定めて可愛らしい坊ちゃんだったろう」
 父はその男をこう荒っぽく叙述《じょじゅつ》しておいて、その男とその家の召使とがある関係に陥入《おちい》った因果《いんが》をごく単簡《たんかん》に物語った。
「元来そいつはね本当の坊ちゃんだから、情事なんて洒落《しゃれ》た経験はまるでそれまで知らなかったのだそうだ。当人もまた婦人に慕《した》われるなんて粋事《いきごと》は自分のようなものにとうてい有り得べからざる奇蹟《きせき》と思っていたのだそうだ。ところがその奇蹟が突然天から降って来たので大変驚ろいたんですね」
 話しかけられた客はむしろ真面目《まじめ》な顔をして、「なるほど」と受けていたが、自分はおかしくてたまらなかった。淋《さみ》しそうな兄の頬《ほお》にも笑の渦《うず》が漂《ただ》よった。
「しかもそれが男の方が消極的で、女の方が積極的なんだからいよいよ妙ですよ。私がそいつに、その女が君に覚召《おぼしめし》があると悟ったのはどういう機《はずみ》だと聞いたらね。真面目《まじめ》な顔をして、いろいろ云いましたが、そのうちで一番面白いと思ったせいか、いまだに覚えているのは、そいつが瓦煎餅《かわらせんべい》か何か食ってるところへ女が来て、私にもその御煎餅《おせんべ》をちょうだいなと云うや否や、そいつの食い欠いた残りの半分を引《ひ》っ手繰《たく》って口へ入れたという時なんです」
 父の話方は無論|滑稽《こっけい》を主にして、大事の真面目な方を背景に引き込ましてしまうので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれで後《あと》には何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修《れんしゅう》して来たように旨《うま》く笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。
「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。
「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻《さっき》も云った通り『景清』の趣《おもむき》の出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭《まえおき》だて」と父は得意らしく答えた。

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