2008年11月10日月曜日

二十

 兄は突然自分の手を放した。けれどもけっしてそこを動こうとしなかった。元の通り立ったまま何も云わずに自分を見下した。
「御前|他《ひと》の心が解るかい」と突然聞いた。
 今度は自分の方が何も云わずに兄を見上げなければならなかった。
「僕の心が兄さんには分らないんですか」とやや間を置いて云った。自分の答には兄の言葉より一種の根強さが籠《こも》っていた。
「御前の心はおれによく解っている」と兄はすぐ答えた。
「じゃそれで好いじゃありませんか」と自分は云った。
「いや御前の心じゃない。女の心の事を云ってるんだ」
 兄の言語のうち、後《あと》一句には火の付いたような鋭さがあった。その鋭さが自分の耳に一種異様の響を伝えた。
「女の心だって男の心だって」と云いかけた自分を彼は急に遮《さえぎ》った。
「御前は幸福な男だ。おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう」
「そりゃ兄さんのような学者じゃないから……」
「馬鹿云え」と兄は叱りつけるように叫んだ。
「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのじゃない。現在自分の眼前にいて、最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究しなければ、いても立ってもいられないというような必要に出逢《であ》った事があるかと聞いてるんだ」
 最も親しかるべきはずの人と云った兄の意味は自分にすぐ解った。
「兄さんはあんまり考え過ぎるんじゃありませんか、学問をした結果。もう少し馬鹿になったら好いでしょう」
「向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。おれの考え慣れた頭を逆に利用して。どうしても馬鹿にさせてくれないんだ」
 自分はここにいたって、ほとんど慰藉《いしゃ》の辞《じ》に窮した。自分より幾倍立派な頭をもっているか分らない兄が、こんな妙な問題に対して自分より幾倍頭を悩めているかを考えると、はなはだ気の毒でならなかった。兄が自分より神経質な事は、兄も自分もよく承知していた。けれども今まで兄からこう歇私的里的《ヒステリてき》に出られた事がないので、自分も実は途方に暮れてしまった。
「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」
「あの人の書翰集《しょかんしゅう》を読んだ事があるか」
「読むどころか表紙を見た事もありません」
「そうか」
 彼はこう云って再び自分の傍《そば》へ腰をかけた。自分はこの時始めて懐中に敷島《しきしま》の袋と燐寸《マッチ》のある事に気がついた。それを取り出して、自分からまず火を点《つ》けて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸った。
「その人の書翰《しょかん》の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌《ようぼう》に満足する人を見ると羨《うらや》ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊《れい》というか魂《たましい》というか、いわゆるスピリットを攫《つか》まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯《しょうがい》独身で暮したんですかね」
「そんな事は知らない。またそんな事はどうでも構わないじゃないか。しかし二郎、おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ」

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