2008年11月10日月曜日

十三

 宿の下にはかなり大きな掘割《ほりわり》があった。それがどうして海へつづいているかちょっと解らなかったが、夕方には漁船が一二|艘《そう》どこからか漕《こ》ぎ寄せて来て、緩《ゆる》やかに楼の前を通り過ぎた。
 自分達はその掘割に沿うて一二丁右の方へ歩いた後《あと》、また左へ切れて田圃路《たんぼみち》を横切り始めた。向うを見ると、田の果《はて》がだらだら坂の上《のぼ》りになって、それを上り尽した土手の縁《ふち》には、松が左右に長く続いていた。自分達の耳には大きな波の石に砕ける音がどどんどどんと聞えた。三階から見るとその砕けた波が忽然《こつぜん》白い煙となって空《くう》に打上げられる様が、明かに見えた。
 自分達はついにその土手の上へ出た。波は土手のもう一つ先にある厚く築き上げられた石垣に当って、みごとに粉微塵《こみじん》となった末、煮え返るような色を起して空《くう》を吹くのが常であったが、たまには崩《くず》れたなり石垣の上を流れ越えて、ざっと内側へ落ち込んだりする大きいのもあった。
 自分達はしばらくその壮観に見惚《みと》れていたが、やがて強い浪《なみ》の響を耳にしながら歩き出した。その時母と自分は、これが片男波《かたおなみ》だろうと好い加減な想像を話の種に二人並んで歩いた。兄夫婦は自分達より少し先へ行った。二人とも浴衣《ゆかた》がけで、兄は細い洋杖《ステッキ》を突いていた。嫂《あによめ》はまた幅の狭い御殿模様か何かの麻《あさ》の帯を締めていた。彼らは自分達よりほとんど二十間ばかり先へ出ていた。そうして二人とも並んで足を運ばして行った。けれども彼らの間にはかれこれ一間の距離があった。母はそれを気にするような、また気にしないような眼遣《めづかい》で、時々見た。その見方がまた余りに神経的なので、母の心はこの二人について何事かを考えながら歩いているとしか思えなかった。けれども自分は話しの面倒になるのを恐れたから、素知《そし》らぬ顔をしてわざと緩々《ゆるゆる》歩いた。そうしてなるべく呑《の》ん気《き》そうに見せるつもりで母を笑わせるような剽軽《ひょうきん》な事ばかり饒舌《しゃべ》った。母はいつもの通り「二郎、御前見たいに暮して行けたら、世間に苦はあるまいね」と云ったりした。
 しまいに彼女はとうとう堪《こら》え切れなくなったと見えて、「二郎あれを御覧」と云い出した。
「何ですか」と自分は聞き返した。
「あれだから本当に困るよ」と母が云った。その時母の眼は先へ行く二人の後姿をじっと見つめていた。自分は少くとも彼女の困ると云った意味を表向《おもてむき》承認しない訳に行かなかった。
「また何か兄さんの気に障《さわ》る事でもできたんですか」
「そりゃあの人の事だから何とも云えないがね。けれども夫婦となった以上は、お前、いくら旦那《だんな》が素《そ》っ気《け》なくしていたって、こっちは女だもの。直《なお》の方から少しは機嫌《きげん》の直るように仕向けてくれなくっちゃ困るじゃないか。あれを御覧な、あれじゃまるであかの他人が同《おん》なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。なんぼ一郎だって直に傍へ寄ってくれるなと頼みやしまいし」
 母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、ただ嫂《あによめ》の方にばかり罪を着せたがった。これには多少自分にも同感なところもあった。そうしてこの同感は平生から兄夫婦の関係を傍《はた》で見ているものの胸にはきっと起る自然のものであった。
「兄さんはまた何か考え込んでいるんですよ。それで姉さんも遠慮してわざと口を利《き》かずにいるんでしょう」
 自分は母のためにわざとこんな気休《きやす》めを云ってごまかそうとした。

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