2008年11月12日水曜日

 それは夕方の比較的長く続く夏の日の事であった。二人の歩いている岡の上はことさら明るく見えた。けれども、遠くにある立樹《たちき》の色が空に包まれてだんだん黒ずんで行くにつれて、空の色も時を移さず変って行った。自分は名残《なごり》の光で岡田の顔を見た。
「君東京にいた時よりよほど快豁《かいかつ》になったようですね。血色も大変好い。結構だ」
 岡田は「ええまあお蔭《かげ》さまで」と云ったような瞹眛《あいまい》な挨拶《あいさつ》をしたが、その挨拶のうちには一種|嬉《うれ》しそうな調子もあった。
 もう晩飯《ばんめし》の用意もできたから帰ろうじゃないかと云って、二人|帰路《きろ》についた時、自分は突然岡田に、「君とお兼さんとは大変仲が好いようですね」といった。自分は真面目なつもりだったけれども、岡田にはそれが冷笑《ひやかし》のように聞えたと見えて、彼はただ笑うだけで何の答えもしなかった。けれども別に否《いな》みもしなかった。
 しばらくしてから彼は今までの快豁《かいかつ》な調子を急に失った。そうして何か秘密でも打ち明けるような具合に声を落した。それでいて、あたかも独言《ひとりごと》をいう時のように足元を見つめながら、「これであいつといっしょになってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、どうも子供ができないんでね、どういうものか。それが気がかりで……」と云った。
 自分は何とも答えなかった。自分は子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがないと、かねてから思っていた。しかし女房を貰ってから後《あと》で、子供が欲しくなるものかどうか、そこになると自分にも判断がつかなかった。
「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いて見た。
「なに子供が可愛《かわい》いかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻《さい》たるものが子供を生まなくっちゃ、まるで一人前の資格がないような気がして……」
 岡田は単にわが女房を世間並《せけんなみ》にするために子供を欲するのであった。結婚はしたいが子供ができるのが怖《こわ》いから、まあもう少し先へ延《のば》そうという苦しい世の中ですよと自分は彼に云ってやりたかった。すると岡田が「それに二人《ふたり》ぎりじゃ淋しくってね」とまたつけ加えた。
「二人ぎりだから仲が好いんでしょう」
「子供ができると夫婦の愛は減るもんでしょうか」
 岡田と自分は実際二人の経験以外にあることをさも心得たように話し合った。
 宅《うち》では食卓の上に刺身だの吸物だのが綺麗《きれい》に並んで二人を待っていた。お兼さんは薄化粧《うすげしょう》をして二人のお酌をした。時々は団扇《うちわ》を持って自分を扇《あお》いでくれた。自分はその風が横顔に当るたびに、お兼さんの白粉《おしろい》の匂《におい》を微《かす》かに感じた。そうしてそれが麦酒《ビール》や山葵《わさび》の香《か》よりも人間らしい好い匂のように思われた。
「岡田君はいつもこうやって晩酌《ばんしゃく》をやるんですか」と自分はお兼さんに聞いた。お兼さんは微笑しながら、「どうも後引上戸《あとひきじょうご》で困ります」と答えてわざと夫の方を見やった。夫は、「なに後《あと》が引けるほど飲ませやしないやね」と云って、傍《そば》にある団扇を取って、急に胸のあたりをはたはたいわせた。自分はまた急にこっちで会うべきはずの友達の事に思い及んだ。
「奥さん、三沢《みさわ》という男から僕に宛《あ》てて、郵便か電報か何か来ませんでしたか。今散歩に出た後で」
「来やしないよ。大丈夫だよ、君。僕の妻はそう云う事はちゃんと心得てるんだから。ねえお兼。――好いじゃありませんか、三沢の一人や二人来たって来なくたって。二郎さん、そんなに僕の宅が気に入らないんですか。第一《だいち》あなたはあの一件からして片づけてしまわなくっちゃならない義務があるでしょう」
 岡田はこう云って、自分の洋盃《コップ》へ麦酒をゴボゴボと注《つ》いだ。もうよほど酔っていた。

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