2008年11月10日月曜日

 実際その頃の大阪は暑かった。ことに我々の泊っている宿屋は暑かった。庭が狭いのと塀《へい》が高いので、日の射し込む余地もなかったが、その代り風の通る隙間《すきま》にも乏しかった。ある時は湿《しめ》っぽい茶座敷の中で、四方から焚火《たきび》に焙《あぶ》られているような苦しさがあった。自分は夜通《よどお》し扇風器をかけてぶうぶう鳴らしたため、馬鹿な真似をして風邪《かぜ》でもひいたらどうすると云って母から叱られた事さえあった。
 大阪を立とうという兄の意見に賛成した自分は、有馬《ありま》なら涼しくって兄の頭によかろうと思った。自分はこの有名な温泉をまだ知らなかった。車夫が梶棒《かじぼう》へ綱を付けて、その綱の先をまた犬に付けて坂路を上《のぼ》るのだそうだが、暑いので犬がともすると渓河《たにがわ》の清水《しみず》を飲もうとするのを、車夫が怒《いか》って竹の棒でむやみに打擲《うちたた》くから、犬がひんひん苦しがりながら俥《くるま》を引くんだという話を、かつて聞いたまましゃべった。
「厭《いや》だねそんな俥に乗るのは、可哀想《かわいそう》で」と母が眉《まゆ》をひそめた。
「なぜまた水を飲ませないんだろう。俥が遅れるからかね」と兄が聞いた。
「途中で水を飲むと疲れて役に立たないからだそうです」と自分が答えた。
「へえー、なぜ」と今度は嫂《あによめ》が不思議そうに聞いたが、それには自分も答える事ができなかった。
 有馬行《ありまゆき》は犬のせいでもなかったろうけれども、とうとう立消《たちぎえ》になった。そうして意外にも和歌《わか》の浦《うら》見物が兄の口から発議《ほつぎ》された。これは自分もかねてから見たいと思っていた名所であった。母も子供の時からその名に親しみがあるとかで、すぐ同意した。嫂だけはどこでも構わないという風に見えた。
 兄は学者であった。また見識家《けんしきか》であった。その上詩人らしい純粋な気質を持って生れた好い男であった。けれども長男だけにどこかわがままなところを具えていた。自分から云うと、普通の長男よりは、だいぶ甘やかされて育ったとしか見えなかった。自分ばかりではない、母や嫂に対しても、機嫌《きげん》の好い時は馬鹿に好いが、いったん旋毛《つむじ》が曲り出すと、幾日《いくか》でも苦い顔をして、わざと口を利《き》かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変ったように、たいていな事があっても滅多《めった》に紳士の態度を崩《くず》さない、円満な好侶伴《こうりょはん》であった。だから彼の朋友はことごとく彼を穏《おだや》かな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれどもやっぱり自分の子だと見えて、どこか嬉《うれ》しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入ろうものなら、自分はむやみに腹が立った。一々その人の宅《うち》まで出かけて行って、彼らの誤解を訂正してやりたいような気さえ起った。
 和歌の浦行に母がすぐ賛成したのも、実は彼女が兄の気性《きしょう》をよく呑み込んでいるからだろうと自分は思った。母は長い間わが子の我《が》を助けて育てるようにした結果として、今では何事によらずその我《が》の前に跪《ひざまず》く運命を甘んじなければならない位地《いち》にあった。
 自分は便所に立った時、手水鉢《ちょうずばち》の傍《そば》にぼんやり立っていた嫂《あによめ》を見付《めっ》けて、「姉さんどうです近頃は。兄さんの機嫌《きげん》は好い方なんですか悪い方なんですか」と聞いた。嫂は「相変らずですわ」とただ一口答えただけであった。嫂はそれでも淋《さみ》しい頬に片靨《かたえくぼ》を寄せて見せた。彼女は淋しい色沢《いろつや》の頬をもっていた。それからその真中に淋しい片靨をもっていた。

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