2008年11月10日月曜日

二十九

 車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過《よす》ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜《くぐ》った。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒《かじぼう》はすでに玄関に横付《よこづけ》になっていた。二人はどうする事もできなかった。その上若い着飾った下女が案内に出たので、二人はついに上《あが》るべく余儀なくされた。
「こんな所へ来るはずじゃなかったんですが」と自分はつい言訳らしい事を云った。
「なぜ。だって立派な御茶屋じゃありませんか。結構だわ」と嫂が答えた。その答えぶりから推《お》すと、彼女は最初からこういう料理屋めいた所へでも来るのを予期していたらしかった。
 実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗《ものぎれい》にかつ堅牢に出来上っていた。
「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口《きぐち》や床《とこ》の軸などを見廻した。嫂は手摺《てすり》の所へ出て、中庭を眺めていた。古い梅の株の下に蘭《らん》の茂りが蒼黒《あおぐろ》い影を深く見せていた。梅の幹にも硬《かた》くて細長い苔《こけ》らしいものがところどころに喰《くっ》ついていた。
 下女が浴衣《ゆかた》を持って風呂の案内に来た。自分は風呂に這入《はい》る時間が惜しかった。そうして日が暮れはしまいかと心配した。できるならば一刻も早く用を片づけて、約束通り明るい路を浜辺《はまべ》まで帰りたいと念じた。
「どうします姉さん、風呂は」と聞いて見た。
 嫂《あによめ》も明るいうちには帰るように兄から兼ねて云いつけられていたので、そこはよく承知していた。彼女は帯の間から時計を出して見た。
「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入っても大丈夫だわ」
 彼女は時間の遅く見えるのを全く天気のせいにした。もっとも濁った雲が幾重《いくえ》にも空を鎖《とざ》しているので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのはたしかに違いなかった。自分はまた今にも降り出しそうな雨を恐れた。降るならひとしきりざっと来た後《あと》で、帰った方がかえって楽だろうと考えた。
「じゃちょっと汗を流して行きましょうか」
 二人はとうとう風呂に入《い》った。風呂から出ると膳《ぜん》が運ばれた。時間からいうと飯には早過ぎた。酒は遠慮したかった。かつ飲める口でもなかった。自分はやむをえず、吸物を吸ったり、刺身を突《つっ》ついたりした。下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云って下げた。
 嫂には改まって云い出したものだろうか、またはそれとなく話のついでにそこへ持って行ったものだろうかと思案した。思案し出すとどっちもいいようでまたどっちも悪いようであった。自分は吸物|椀《わん》を手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。
「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。
「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。
「そう。そんなに御天気が怖《こわ》いの。あなたにも似合わないのね」
「怖かないけど、もし強雨《ごうう》にでもなっちゃ大変ですからね」
 自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人|紋付《もんつき》羽織《はおり》の人影が見えた。その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。
 宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。

0 件のコメント: