2008年11月6日木曜日

三十九

 翌日《よくじつ》は昨日《きのう》と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂《あによめ》に向って云った。
「本当《ほんと》ね」と彼女も答えた。
 二人はよく寝なかったから、夢から覚《さ》めたという心持はしなかった。ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空は蒼《あお》く染められていた。
 自分は朝飯《あさめし》の膳《ぜん》に向いながら、廂《ひさし》を洩《も》れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。したがって向い合っている嫂の姿が昨夕《ゆうべ》の嫂とは全く異なるような心持もした。今朝《けさ》見ると彼女の眼にどこといって浪漫的《ロマンてき》な光は射していなかった。ただ寝の足りない※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶち》が急に爽《さわや》かな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにも慵《ものう》いと云ったような一種の倦怠《けた》るさが見えた。頬の蒼白《あおじろ》いのも常に変らなかった。
 我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用して俥《くるま》を雇った。車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。俥に乗るや否や自分の梶棒《かじぼう》を先へ上げた。自分はそれをとめるように、「後《あと》から後から」と云った。車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。嫂の俥が自分の傍《そば》を擦《す》り抜ける時、彼女は例の片靨《かたえくぼ》を見せて「御先へ」と挨拶《あいさつ》した。自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気になった。嫂はそんな景色《けしき》もなく、自分を乗り越すや否や、琥珀《こはく》に刺繍《ぬい》のある日傘《ひがさ》を翳《かざ》した。彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。
 自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡《やわた》の藪知《やぶし》らずへ這入《はい》ったように、すべてが解らなくなった。
 すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。経験に乏しい自分はこうも考えて見た。またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたい嫂《あによめ》だけの特色であるようにも考えて見た。とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々《あおあお》と晴れてしまった。自分は気の抜けた麦酒《ビール》のような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。
 突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。自分は何と報告して好いかよく解らなかった。云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶《はんもん》し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。
 俥《くるま》が宿へ着いたとき、三階の縁側《えんがわ》には母の影も兄の姿も見えなかった。

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