2008年11月6日木曜日

三十三

 自分はその時急に母や兄の事を思い出した。眉《まゆ》を焦《こが》す火のごとく思い出した。狂《くる》う風と渦巻《うずま》く浪《なみ》に弄《もてあそ》ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。
「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかった。けれども気のせいか、常から蒼《あお》い頬が一層蒼いように感ぜられた。その蒼い頬の一部と眼の縁《ふち》に先刻《さっき》泣いた痕跡《こんせき》がまだ残っていた。嫂はそれを下女に悟られるのが厭《いや》なんだろう、電灯に疎《うと》い不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかった。
「和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか」と云った。
 見当違いの方から出たこの問は、自分に云うのか、または下女に聞くのか、ちょっと解らなかった。
「俥《くるま》でも駄目《だめ》だろうね」と自分が同じような問を下女に取次いだ。
 下女は駄目という言葉こそ繰返さなかったが、危険な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜だけは和歌山《ここ》へ泊れと忠告した。彼女の顔はむしろわれわれ二人の利害を標的《まと》にして物を云ってるらしく真面目《まじめ》に見えた。自分は下女の言葉を信ずれば信ずるほど母の事が気になった。
 防波堤と母の宿との間にはかれこれ五六町の道程《みちのり》があった。波が高くて少し土手を越すくらいなら、容易に三階の座敷まで来る気遣《きづか》いはなかろうとも考えた。しかしもし海嘯《つなみ》が一度に寄せて来るとすると、……
「おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波に攫《さら》われる事があるかい」
 自分は本当に心配の余り下女にこう聞いた。下女はそんな事はないと断言した。しかし波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水《みずうみ》のようにいっぱいになる事は二三度あったと告げた。
「それにしたって、水に浸《つか》った家《うち》は大変だろう」と自分はまた聞いた。
 下女は、高々水の中で家がぐるぐる回《まわ》るくらいなもので、海まで持って行かれる心配はまずあるまいと答えた。この呑気《のんき》な答えが心配の中にも自分を失笑せしめた。
「ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか」
 下女は何とも云わずに笑っていた。嫂《あによめ》も暗い方から電灯をまともに見始めた。
「姉さんどうします」
「どうしますって、妾《あたし》女だからどうして好いか解らないわ。もしあなたが帰るとおっしゃれば、どんな危険があったって、妾いっしょに行くわ」
「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか」
「あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」
 下女は今まで勘違《かんちがい》をしていたと云わぬばかりの眼遣《めづかい》をして二人を見較べた。
「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。
「通じません」
 自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。
「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。
「ええ」
 彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。
「町の中なら俥《くるま》が通うんだね」と自分はまた下女に向った。

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