2008年11月10日月曜日

十四

「たとい何か考えているにしてもだね。直《なお》の方がああ無頓着《むとんじゃく》じゃ片っ方でも口の利きようがないよ。まるでわざわざ離れて歩いているようだもの」
 兄に同情の多い母から見ると、嫂の後姿《うしろすがた》は、いかにも冷淡らしく思われたのだろう。が自分はそれに対して何とも答えなかった。ただ歩きながら嫂の性格をもっと一般的に考えるようになった。自分は母の批評が満更《まんざら》当っていないとも思わなかった。けれども我肉身の子を可愛《かわい》がり過ぎるせいで、少し彼女の欠点を苛酷《かこく》に見ていはしまいかと疑った。
 自分の見た彼女はけっして温《あたた》かい女ではなかった。けれども相手から熱を与えると、温め得る女であった。持って生れた天然の愛嬌《あいきょう》のない代りには、こっちの手加減でずいぶん愛嬌を搾《しぼ》り出す事のできる女であった。自分は腹の立つほどの冷淡さを嫁入後《よめいりご》の彼女に見出した事が時々あった。けれども矯《た》めがたい不親切や残酷心はまさかにあるまいと信じていた。
 不幸にして兄は今自分が嫂について云ったような気質を多量に具えていた。したがって同じ型に出来上ったこの夫婦は、己《おの》れの要するものを、要する事のできないお互に対して、初手《しょて》から求め合っていて、いまだにしっくり反《そり》が合わずにいるのではあるまいか。時々兄の機嫌《きげん》の好い時だけ、嫂も愉快そうに見えるのは、兄の方が熱しやすい性《たち》だけに、女に働きかける温か味の功力《くりき》と見るのが当然だろう。そうでない時は、母が嫂を冷淡過ぎると評するように、嫂もまた兄を冷淡過ぎると腹のうちで評しているかも知れない。
 自分は母と並んで歩きながら先へ行く二人をこんなに考えた。けれども母に対してはそんなむずかしい理窟《りくつ》を云う気にはなれなかった。すると「どうも不思議だよ」と母が云い出した。
「いったい直は愛嬌のある質《たち》じゃないが、御父さんや妾《わたし》にはいつだって同《おん》なじ調子だがね。二郎、御前にだってそうだろう」
 これは全く母の云う通りであった。自分は元来|性急《せっかち》な性分で、よく大きな声を出したり、怒鳴《どな》りつけたりするが、不思議にまだ嫂《あによめ》と喧嘩《けんか》をした例《ためし》はなかったのみならず、場合によると、兄よりもかえって心おきなく話をした。
「僕にもそうですがね。なるほどそう云われれば少々変には違ない」
「だからさ妾《わたし》には直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ」
「まさか」
 自白すると自分はこの問題を母ほど細《こま》かく考えていなかった。したがってそんな疑いを挟《さしは》さむ余地がなかった。あってもその原因が第一不審であった。
「だって宅中《うちじゅう》で兄さんが一番大事な人じゃありませんか、姉さんにとって」
「だからさ。御母さんには訳が解らないと云うのさ」
 自分にはせっかくこんな景色の好い所へ来ながら、際限もなく母を相手に、嫂を陰で評しているのが馬鹿らしく感ぜられてきた。
「そのうち機会《おり》があったら、姉さんにまたよく腹の中を僕から聞いて見ましょう。何心配するほどの事はありませんよ」と云い切って、向《むこう》の石垣まで突き出している掛茶屋から防波堤《ぼうはてい》の上に馳《か》け上った。そうして、精一杯の声を揚《あ》げて、「おーいおーい」と呼んだ。兄夫婦は驚いてふり向いた。その時石の堤に当って砕けた波が、吹き上げる泡《あわ》と脚《あし》を洗う流れとで、自分を濡鼠《ぬれねずみ》のごとくにした。
 自分は母に叱られながら、ぽたぽた雫《しずく》を垂らして、三人と共に宿に帰った。どどんどどんという波の音が、帰り道|中《じゅう》自分の鼓膜《こまく》に響いた。

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