2008年11月6日木曜日

三十四

 二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。仕度《したく》をして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯《ちょうちん》とが、雨の音と風の叫びに冴《さ》えて、あたかも闇《やみ》に狂う物凄《ものすご》さを照らす道具のように思われた。嫂《あによめ》はまず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌《ほろ》の中へ隠した。自分もつづいて窮屈な深い桐油《とうゆ》の中に身体《からだ》を入れた。
 幌の中に包まれた自分はほとんど往来の凄《すさま》じさを見る遑《いとま》がなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯《つなみ》というものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退《しりぞ》けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観《かん》じた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。
 そのうち俥《くるま》の梶棒《かじぼう》が一軒の宿屋のような構《かまえ》の門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾《のれん》を潜《くぐ》って土間へ這入《はい》ったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割に竪《たて》からいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵《よい》の口としては至って淋《さみ》しい光景であった。
 自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘《かさ》の先を斜《ななめ》に土間に突いたなりで立っていた。
 下女の案内で二人の通された部屋は、縁側《えんがわ》を前に御簾《みす》のような簀垂《すだれ》を軒に懸けた古めかしい座敷であった。柱は時代で黒く光っていた。天井《てんじょう》にも煤《すす》の色が一面に見えた。嫂は例の傘を次の間《ま》の衣桁《いこう》に懸けて、「ここは向うが高い棟《むね》で、こっちが厚い練塀《ねりべい》らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻《さっき》俥へ乗った時は大変ね。幌《ほろ》の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗《の》しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。妾《あたし》もう少しで俥が引《ひ》っ繰返《くりかえ》るかも知れないと思ったわ」と云った。
 自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直《まっすぐ》に答えるほどの勇気もなかった。
「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。
「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。
 自分は胸がまたわくわくし出した。「姐《ねえ》さんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴《ベル》をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨《あらし》の模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、呼《よ》び甲斐《がい》も鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついに我《が》を折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団《ふとん》の上に坐《すわ》って茶を啜《すす》っていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして? 通じて?」と聞いた。自分は電話について今の一部始終《いちぶしじゅう》を説明した。
「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」
 風はどこからか二筋に綯《よ》れて来たのが、急に擦違《すれちがい》になって唸《うな》るような怪しい音を立てて、また虚空遥《こくうはるか》に騰《のぼ》るごとくに見えた。

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