2008年11月11日火曜日

十五

 三沢の氷嚢《ひょうのう》は依然としてその日も胃の上に在《あ》った。
「まだ氷で冷やしているのか」
 自分はいささか案外な顔をしてこう聞いた。三沢にはそれが友達|甲斐《がい》もなく響いたのだろう。
「鼻風邪《はなかぜ》じゃあるまいし」と云った。
 自分は看護婦の方を向いて、「昨夕《ゆうべ》は御苦労さま」と一口礼を述べた。看護婦は色の蒼《あお》い膨《ふく》れた女であった。顔つきが絵にかいた座頭に好く似ているせいか、普通彼らの着る白い着物がちっとも似合わなかった。岡山のもので、小さい時|膿毒性《のうどくしょう》とかで右の眼を悪くしたんだと、こっちで尋ねもしない事を話した。なるほどこの女の一方の眼には白い雲がいっぱいにかかっていた。
「看護婦さん、こんな病人に優しくしてやると何を云い出すか分らないから、好加減《いいかげん》にしておくがいいよ」
 自分は面白半分わざと軽薄な露骨《ろこつ》を云って、看護婦を苦笑《くしょう》させた。すると三沢が突然「おい氷だ」と氷嚢を持ち上げた。
 廊下の先で氷を割る音がした時、三沢はまた「おい」と云って自分を呼んだ。
「君には解るまいが、この病気を押していると、きっと潰瘍《かいよう》になるんだ。それが危険だから僕はこうじっとして氷嚢を載《の》せているんだ。ここへ入院したのも、医者が勧めたのでも、宿で周旋して貰ったのでもない。ただ僕自身が必要と認めて自分で入ったのだ。酔興じゃないんだ」
 自分は三沢の医学上の智識について、それほど信を置き得なかった。けれどもこう真面目《まじめ》に出られて見ると、もう交《ま》ぜ返《かえ》す勇気もなかった。その上彼のいわゆる潰瘍とはどんなものか全く知らなかった。
 自分は起《た》って窓側《まどぎわ》へ行った。そうして強い光に反射して、乾いた土の色を見せている暗《くら》がり峠《とうげ》を望んだ。ふと奈良へでも遊びに行って来《き》ようかという気になった。
「君その様子じゃ当分約束を履行《りこう》する訳にも行かないだろう」
「履行しようと思って、これほどの養生をしているのさ」
 三沢はなかなか強情の男であった。彼の強情につき合えば、彼の健康が旅行に堪《た》え得るまで自分はこの暑い都の中で蒸《む》されていなければならなかった。
「だって君の氷嚢はなかなか取れそうにないじゃないか」
「だから早く癒《なお》るさ」
 自分は彼とこういう談話を取り換《か》わせているうちに、彼の強情のみならず、彼のわがままな点をよく見て取った。同時に一日も早く病人を見捨てて行こうとする自分のわがままもまたよく自分の眼に映った。
「君大阪へ着いたときはたくさん伴侶《つれ》があったそうじゃないか」
「うん、あの連中と飲んだのが悪かった」
 彼の挙げた姓名のうちには、自分の知っているものも二三あった。三沢は彼らと名古屋からいっしょの汽車に乗ったのだが、いずれも馬関とか門司とか福岡とかまで行く人であるにかかわらず久しぶりだからというので、皆《みん》な大阪で降りて三沢と共に飯を食ったのだそうである。
 自分はともかくももう二三日いて病人の経過を見た上、どうとかしようと分別《ふんべつ》した。

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