2008年11月10日月曜日

十六

 朝起きて膳《ぜん》に向った時見ると、四人《よつたり》はことごとく寝足らない顔をしていた。そうして四人ともその寝足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと会話を陰気にしているらしかった。自分も変に窮屈だった。
「昨夕《ゆうべ》食った鯛《たい》の焙烙蒸《ほうろくむし》にあてられたらしい」と云って、自分は不味《まず》そうな顔をして席を立った。手摺《てすり》の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂《いただき》まで物数奇《ものずき》な人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流《ぶふうりゅう》な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日《きのう》から自分の注意を惹《ひ》いていた。
 はたして早起の客が二人三人ぽつぽつもう乗り始めた。早く食事を終えた兄はいつの間にか、自分の後《うしろ》へ来て、小楊枝《こようじ》を使いながら、上《のぼ》ったり下《お》りたりする鉄の箱を自分と同じように眺めていた。
「二郎、今朝《けさ》ちょっとあの昇降器へ乗って見ようじゃないか」と兄が突然云った。
 自分は兄にしてはちと子供らしい事を云うと思って、ひょっと後《うしろ》を顧《かえり》みた。
「何だか面白そうじゃないか」と兄は柄《がら》にもない稚気《ちき》を言葉に現した。自分は昇降器へ乗るのは好いが、ある目的地へ行けるかどうかそれが危《あや》しかった。
「どこへ行けるんでしょう」
「どこだって構わない。さあ行こう」
 自分は母と嫂《あによめ》も無論いっしょに連れて行くつもりで、「さあさあ」と大きな声で呼び掛けた。すると兄は急に自分を留めた。
「二人で行こう。二人ぎりで」と云った。
 そこへ母と嫂が「どこへ行くの」と云って顔を出した。
「何ちょっとあのエレヴェーターへ乗って見るんです。二郎といっしょに。女には剣呑《けんのん》だから、御母さんや直《なお》は止した方が好いでしょう。僕らがまあ乗って、試《ため》して見ますから」
 母は虚空《こくう》に昇って行く鉄の箱を見ながら気味の悪そうな顔をした。
「直お前どうするい」
 母がこう聞いた時、嫂は例の通り淋《さむ》しい靨《えくぼ》を寄せて、「妾《わたくし》はどうでも構いません」と答えた。それがおとなしいとも取れるし、また聴きようでは、冷淡とも無愛想とも取れた。それを自分は兄に対して気の毒と思い嫂に対しては損だと考えた。
 二人は浴衣《ゆかた》がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人|這入《はい》ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶《うっとう》しい感じを起した。
「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語《ささや》いた。
「そうですね」と自分が答えた。
「人間もこの通りだ」
 兄は時々こんな哲学者めいた事をいう癖があった。自分はただ「そうですな」と答えただけであった。けれども兄の言葉は単にその輪廓《りんかく》ぐらいしか自分には呑み込めなかった。
 牢屋に似た箱の上《のぼ》りつめた頂点は、小さい石山の天辺《てっぺん》であった。そのところどころに背の低い松が噛《かじ》りつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼に嬉《うれ》しく映った。そうしてわずかな平地《ひらち》に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった。兄と自分は猿に芋をやったり、調戯《からか》ったりして、物の十分もその茶屋で費やした。
「どこか二人だけで話す所はないかな」
 兄はこう云って四方《あたり》を見渡した。その眼は本当に二人だけで話のできる静かな場所を見つけているらしかった。

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