2008年11月11日火曜日

三十二

 三沢はただこう云った。そうして夢に見ない先からすでに「あの女」の淋しい笑い顔を眼の前に浮べているように見えた。三沢に感傷的のところがあるのは自分もよく承知していたが、単にあれだけの関係で、これほどあの女に動かされるのは不審であった。自分は三沢と「あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思って、少し水を向けかけたが、何の効果もなかった。しかも彼の態度が惜しいものを半分|他《ひと》に配《わ》けてやると、半分無くなるから厭《いや》だという風に見えたので、自分はますます変な気持がした。
「そろそろ出かけようか。夜の急行は込むから」ととうとう自分の方で三沢を促《うな》がすようになった。
「まだ早い」と三沢は時計を見せた。なるほど汽車の出るまでにはまだ二時間ばかり余っていた。もう「あの女」の事は聞くまいと決心した自分は、なるべく病院の名前を口へ出さずに、寝転《ねころ》びながら彼と通り一遍の世間話を始めた。彼はその時|人並《ひとなみ》の受け答をした。けれどもどこか調子に乗らないところがあるので、何となく不愉快そうに見えた。それでも席は動かなかった。そうしてしまいには黙って河の流ればかり眺《なが》めていた。
「まだ考えている」と自分は大きな声を出してわざと叫んだ。三沢は驚いて自分を見た。彼はこういう場合にきっと、御前はヴァルガーだと云う眼つきをして、一瞥《いちべつ》の侮辱を自分に与えなければ承知しなかったが、この時に限ってそんな様子はちっとも見せなかった。
「うん考えている」と軽く云った。「君に打ち明けようか、打ち明けまいかと迷っていたところだ」と云った。
 自分はその時彼から妙な話を聞いた。そうしてその話が直接「あの女」と何の関係もなかったのでなおさら意外の感に打たれた。
 今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁《よめ》らした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿《てんめん》した事情のために、一年|経《た》つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれどもそこにもまた複雑な事情があって、すぐわが家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人《なこうど》という義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢はいったん嫁《とつ》いで出て来た女を娘さん娘さんと云った。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅《うち》へ来る前か、あるいは来てからかよく分らないが、とにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。固《もと》より精神に異状を呈しているには相違なかろうが、ちょっと見たって少しも分らない。ただ黙って欝《ふさ》ぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
 三沢はここまで来て少し躊躇《ちゅうちょ》した。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点《がってん》合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅《うち》のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫《ふびん》でたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍《そば》へ行って、立ったままただいまと一言《ひとこと》必ず云う事にしていた」
 三沢はそこへ来てまた時計を見た。
「まだ時間はあるね」と云った。

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