2008年11月6日木曜日

十四

 父の話すところによると、その男とその女の関係は、夏の夜の夢のようにはかないものであった。しかし契《ちぎ》りを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。もっともこれは女から申し出した条件でも何でもなかったので、ただ男の口から勢いに駆《か》られて、おのずと迸《ほとば》しった、誠ではあるが実行しにくい感情的の言葉に過ぎなかったと父はわざわざ説明した。
「と云うのはね、両方共おない年でしょう。しかも一方は親の脛《すね》を噛《かじ》ってる前途遼遠《ぜんとりょうえん》の書生だし、一方は下女奉公でもして暮そうという貧しい召使いなんだから、どんな堅い約束をしたって、その約束の実行ができる長い年月の間には、どんな故障が起らないとも限らない。で、女が聞いたそうですよ。あなたが学校を卒業なさると、二十五六に御成《おな》んなさる。すると私も同じぐらいに老《ふ》けてしまう。それでも御承知ですかってね」
 父はそこへ来て、急に話を途切《とぎ》らして、膝の下にあった銀煙管《ぎんぎせる》へ煙草《たばこ》を詰めた。彼が薄青い煙を一時に鼻の穴から出した時、自分はもどかしさの余り「その人は何て答えました」と聞いた。
 父は吸殻《すいがら》を手で叩《はた》きながら「二郎がきっと何とか聞くだろうと思った。二郎面白いだろう。世間にはずいぶんいろいろな人があるもんだよ」と云って自分を見た。自分はただ「へえ」と答えた。
「実はわしも聞いて見た、その男に。君何て答えたかって。すると坊ちゃんだね、こう云うんだ。僕は自分の年も先の年も知っていた。けれども僕が卒業したら女がいくつになるか、そこまでは考えていられなかった。いわんや僕が五十になれば先も五十になるなんて遠い未来は全く頭の中に浮かんで来なかったって」
「無邪気なものですね」と兄はむしろ賛嘆《さんたん》の口《くち》ぶりを見せた。今まで黙っていた客が急に兄に賛成して、「全くのところ無邪気だ」とか「なるほど若いものになるといかにも一図《いちず》ですな」とか云った。
「ところが一週間|経《た》つか経たないうちにそいつが後悔し始めてね、なに女は平気なんだが、そいつが自分で恐縮してしまったのさ。坊ちゃんだけに意気地のない事ったら。しかし正直ものだからとうとう女に対してまともに結婚破約を申し込んで、しかもきまりの悪そうな顔をして、御免《ごめん》よとか何とか云って謝罪《あや》まったんだってね。そこへ行くとおない年だって先は女だもの、『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛《かわ》いくもなるだろうが、また馬鹿馬鹿しくもなるだろうよ」
 父は大きな声を出して笑った。御客もその反響のごとくに笑った。兄だけはおかしいのだか、苦々《にがにが》しいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。彼の人生観から云ったら父の話しぶりさえあるいは軽薄に響いたかもしれない。
 父の語るところを聞くと、その女はしばらくしてすぐ暇を貰ってそこを出てしまったぎり再び顔を見せなかったけれども、その男はそれ以来二三カ月の間何か考え込んだなり魂が一つ所にこびりついたように動かなかったそうである。一遍その女が近所へ来たと云って寄った時などでも、ほかの人の手前だか何だかほとんど一口も物を云わなかった。しかもその時はちょうど午飯《ひるめし》の時で、その女が昔の通り御給仕をしたのだが、男はまるで初対面の者にでも逢《あ》ったように口数《くちかず》を利《き》かなかった。
 女もそれ以来けっして男の家の敷居を跨《また》がなかった。男はまるでその女の存在を忘れてしまったように、学校を出て家庭を作って、二十何年というつい近頃まで女とは何らの交渉もなく打過ぎた。

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