2008年11月10日月曜日

二十五

 ややあって兄は昂奮《こうふん》した調子でこう云った。
「二郎おれはお前を信用している。けれども直《なお》を疑ぐっている。しかもその疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。ただし不幸と云うのは、お前に取って不幸というので、おれにはかえって幸《さいわい》になるかも知れない。と云うのは、おれは今明言した通り、お前の云う事なら何でも信じられるしまた何でも打明けられるから、それでおれには幸いなのだ。だから頼むのだ。おれの云う事に満更《まんざら》論理のない事もあるまい」
 自分はその時兄の言葉の奥に、何か深い意味が籠《こも》っているのではなかろうかと疑い出した。兄は腹の中で、自分と嫂《あによめ》の間に肉体上の関係を認めたと信じて、わざとこういう難題を持ちかけるのではあるまいか。自分は「兄さん」と呼んだ。兄の耳にはとにかく、自分はよほど力強い声を出したつもりであった。
「兄さん、ほかの事とは違ってこれは倫理上の大問題ですよ……」
「当り前さ」
 自分は兄の答えのことのほか冷淡なのを意外に感じた。同時に先の疑いがますます深くなって来た。
「兄さん、いくら兄弟の仲だって僕はそんな残酷な事はしたくないです」
「いや向うの方がおれに対して残酷なんだ」
 自分は兄に向って嫂《あによめ》がなぜ残酷であるかの意味を聞こうともしなかった。
「そりゃ改めてまた伺いますが、何しろ今の御依頼だけは御免蒙《ごめんこうむ》ります。僕には僕の名誉がありますから。いくら兄さんのためだって、名誉まで犠牲にはできません」
「名誉?」
「無論名誉です。人から頼まれて他《ひと》を試験するなんて、――ほかの事だって厭《いや》でさあ。ましてそんな……探偵じゃあるまいし……」
「二郎、おれはそんな下等な行為をお前から向うへ仕かけてくれと頼んでいるのじゃない。単に嫂としまた弟として一つ所へ行って一つ宿へ泊ってくれというのだ。不名誉でも何でもないじゃないか」
「兄さんは僕を疑ぐっていらっしゃるんでしょう。そんな無理をおっしゃるのは」
「いや信じているから頼むのだ」
「口で信じていて、腹では疑ぐっていらっしゃる」
「馬鹿な」
 兄と自分はこんな会話を何遍も繰返した。そうして繰返すたびに双方共激して来た。するとちょっとした言葉から熱が急に引いたように二人共治まった。
 その激したある時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。しかしその発作《ほっさ》が風のように過ぎた後《あと》ではまた通例の人間のようにも感じた。しまいに自分はこう云った。
「実はこの間から僕もその事については少々考えがあって、機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですから、それだけなら受合いましょう。もうじき東京へ帰るでしょうから」
「じゃそれを明日《あした》やってくれ。あした昼いっしょに和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支《さしつか》えないだろう」
 自分はなぜかそれが厭《いや》だった。東京へ帰ってゆっくり折を見ての事にしたいと思ったが、片方を断った今更一方も否《いや》とは云いかねて、とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。

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