2008年11月6日木曜日

三十八

 自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂《あによめ》はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾《のれん》のように抵抗《たわい》がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中《うち》にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間|始終《しじゅう》彼女から翻弄《ほんろう》されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。
 彼女は最後に物凄《ものすご》い決心を語った。海嘯《つなみ》に攫《さら》われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人でこの和歌山に来てから)体力や筋力において遥《はるか》に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対してはどことなく無気味な感じがあった。そうしてその無気味さがはなはだ狎《な》れやすい感じと妙に相伴っていた。
 自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮《こうふん》して海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。
「姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね」
「ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘《うそ》だと思うなら、和歌の浦まで伴《つ》れて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」
 薄暗い行灯《あんどん》の下《もと》で、暴風雨《あらし》の音の間にこの言葉を聞いた自分は、実際物凄かった。彼女は平生から落ちついた女であった。歇私的里風《ヒステリふう》なところはほとんどなかった。けれども寡言《かげん》な彼女の頬は常に蒼《あお》かった。そうしてどこかの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
「姉さんは今夜よっぽどどうかしている。何か昂奮している事でもあるんですか」
 自分は彼女の涙を見る事はできなかった。また彼女の泣き声を聞く事もできなかった。けれども今にもそこに至りそうな気がするので、暗い行灯《あんどん》の光を便《たよ》りに、蚊帳《かや》の中を覗《のぞ》いて見た。彼女は赤い蒲団《ふとん》を二枚重ねてその上に縁《ふち》を取った白麻《しろあさ》の掛蒲団を胸の所まで行儀よく掛けていた。自分が暗い灯《ひ》でその姿を覗《のぞ》き込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。
「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれども妾《あたし》ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」
 自分は何と答うべき言葉も持たなかった。黙って二本目の敷島《しきしま》を暗い灯影《ほかげ》で吸い出した。自分はわが鼻と口から濛々《もうもう》と出る煙ばかりを眺めていた。自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺《うかが》った。嫂の姿は死んだように静であった。あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。すると突然|仰向《あおむ》けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「あなたそこで何をしていらっしゃるの」
「煙草を呑《の》んでるんです。寝られないから」
「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」
「ええ」
 自分は蚊帳の裾《すそ》を捲《ま》くって、自分の床の中に這入《はい》った。

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