2008年11月11日火曜日

十八

 金の事はついそれなりになった。自分は岡田へ金を借りに行く時の思いを想像すると実際|厭《いや》だった。病気に罹《かか》った友達のためだと考えても、少しも進む気はしなかった。その代りこの地を立つとも立たないとも決心し得ないでぐずぐずした。
 岡田からの電話はかかって来た時|大《おおい》に自分の好奇心を動揺させたので、わざわざ彼に会って真相を聞き糺《ただ》そうかと思ったけれども、一晩|経《た》つとそれも面倒になって、ついそのままにしておいた。
 自分は依然として病院の門を潜《くぐ》ったり出たりした。朝九時頃玄関にかかると、廊下も控所も外来の患者でいっぱいに埋《うま》っている事があった。そんな時には世間にもこれほど病人があり得るものかとわざと驚いたような顔をして、彼らの様子を一順《いちじゅん》見渡してから、梯子段《はしごだん》に足をかけた。自分が偶然あの女を見出だしたのは全くこの一瞬間にあった。あの女というのは三沢があの女あの女と呼ぶから自分もそう呼ぶのである。
 あの女はその時廊下の薄暗い腰掛の隅《すみ》に丸くなって横顔だけを見せていた。その傍《そば》には洗髪《あらいがみ》を櫛巻《くしまき》にした背の高い中年の女が立っていた。自分の一瞥《いちべつ》はまずその女の後姿《うしろすがた》の上に落ちた。そうして何だかそこにぐずぐずしていた。するとその年増《としま》が向うへ動き出した。あの女はその年増の影から現われたのである。その時あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。けれども血色にも表情にも苦悶《くもん》の迹《あと》はほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。ただ胸が腹に着くほど背中を曲げているところに、恐ろしい何物かが潜《ひそ》んでいるように思われて、それがはなはだ不快であった。自分は階段を上《のぼ》りつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌《ようぼう》の下に包んでいる病苦とを想像した。
 三沢は看護婦から病院のAという助手の話を聞かされていた。このAさんは夜になって閑《ひま》になると、好く尺八《しゃくはち》を吹く若い男であった。独身《ひとり》もので病院に寝泊りをして、室《へや》は三沢と同じ三階の折れ曲った隅にあった。この間まで始終《しじゅう》上履《スリッパー》の音をぴしゃぴしゃ云わして歩いていたが、この二三日まるで顔を見せないので、三沢も自分も、どうかしたのかねぐらいは噂《うわさ》し合っていたのである。
 看護婦はAさんが時々|跛《びっこ》を引いて便所へ行く様子がおかしいと云って笑った。それから病院の看護婦が時々ガーゼと金盥《かなだらい》を持ってAさんの部屋へ入って行くところを見たとも云った。三沢はそういう話に興味があるでもなく、また無いでもないような無愛嬌《ぶあいきょう》な顔をして、ただ「ふん」とか「うん」とか答えていた。
 彼はまた自分にいつまで大阪にいるつもりかと聞いた。彼は旅行を断念してから、自分の顔を見るとよくこう云った。それが自分には遠慮がましくかつ催促がましく聞こえてかえって厭《いや》であった。
「僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ」
「どうかそうしてくれ」
 自分は立って窓から真下を見下した。「あの女」はいくら見ていても門の外へ出て来なかった。
「日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ」と三沢が聞いた。
「見ているんだ」と自分は答えた。
「何を見ているんだ」と三沢が聞き返した。

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