2008年11月6日木曜日

十九

「女はそんな事で満足したんですか」と兄が聞いた。自分から見ると、兄のこの問には冒《おか》すべからざる強味が籠《こも》っていた。それが一種の念力《ねんりき》のように自分には響いた。
 父は気がついたのか、気がつかなかったのか、平気でこんな答をした。
「始《はじめ》は満足しかねた様子だった。もちろんこっちの云う事がそらそれほど根のある訳でもないんだからね。本当を云えば、先刻《さっき》お前達に話した通り男の方はまるで坊ちゃんなんで、前後の分別も何もないんだから、真面目《まじめ》な挨拶《あいさつ》はとてもできないのさ。けれどもそいつがいったん女と関係した後で止せば好かったと後悔したのは、どうも事実に違なかろうよ」
 兄は苦々しい顔をして父を見ていた。父は何という意味か、両手で長い頬を二度ほど撫《な》でた。
「この席でこんな御話をするのは少し憚《はばか》りがあるが」と兄が云った。自分はどんな議論が彼の口から出るか、次第によっては途中からその鉾先《ほこさき》を、一座の迷惑にならない方角へ向易《むけか》えようと思って聞いていた。すると彼はこう続けた。
「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈《はげ》しい愛を相手に捧《ささ》げるが、いったん事が成就《じょうじゅ》するとその愛がだんだん下り坂になるに反して、女の方は関係がつくとそれからその男をますます慕《した》うようになる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」
「妙な御話ね。妾《あたし》女だからそんなむずかしい理窟《りくつ》は知らないけれども、始めて伺ったわ。ずいぶん面白い事があるのね」
 嫂《あによめ》がこう云った時、自分は客に見せたくないような厭《いや》な表情を兄の顔に見出したので、すぐそれをごまかすため何か云って見ようとした。すると父が自分より早く口を開いた。
「そりゃ学理から云えばいろいろ解釈がつくかも知れないけれども、まあ何だね、実際はその女が厭になったに相違ないとしたところで、当人|面喰《めんく》らったんだね、まず第一に。その上|小胆《しょうたん》で無分別で正直と来ているから、それほど厭でなくっても断りかねないのさ」
 父はそう云ったなり洒然《しゃぜん》としていた。
 床《とこ》の前に謡本を置いていた一人の客が、その時父の方を向いてこう云った。
「しかし女というものはとにかく執念深《しゅうねんぶか》いものですね。二十何年もその事を胸の中に畳込んでおくんですからね。全くのところあなたは好い功徳《くどく》をなすった。そう云って安心させてやればその眼の見えない女のためにどのくらい嬉《うれ》しかったか解りゃしません」
「そこがすべての懸合事《かけあいごと》の気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」
 他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭を掻《か》いて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなか疑《うたぐ》りが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢《つや》をつけたり、出鱈目《でたらめ》を拵《こしら》えたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。
 やがて客は謡本を風呂敷に包んで露《つゆ》に濡《ぬ》れた門を潜《くぐ》って出た。皆《みん》な後《あと》で世間話をしているなかに、兄だけはむずかしい顔をして一人書斎に入った。自分は例のごとく冷《ひやや》かに重い音をさせる上草履《スリッパー》の音を一つずつ聞いて、最後にどんと締まる扉《ドア》の響に耳を傾けた。

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