2008年11月6日木曜日

十五

「それだけで済めばまあただの逸話さ。けれども運命というものは恐しいもので……」と父がまた語り続けた。
 自分は父が何を云い出すかと思って、彼の顔から自分の眼を離し得なかった。父の物語りの概要を摘《つま》んで見ると、ざっとこうであった。
 その男がその女をまるで忘れた二十何年の後《のち》、二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会《びおんかい》とかのあった薄ら寒い宵《よい》の事だそうである。
 その時男は細君と女の子を連れて、土間《どま》の何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分|経《た》つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入《はい》って来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目《めくら》になってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。
 男は始め自分の傍《そば》に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆《さか》さに振られたごとく驚ろいた。次に黒い眸《ひとみ》をじっと据《す》えて自分を見た昔の面影《おもかげ》が、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然《がくぜん》として心細い感に打たれた。
 十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日《こんにち》に至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上《のぼ》す暇《いとま》もなく、ただ自然に凋落《ちょうらく》しかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔を偲《しの》ぶ気色《けしき》を濃い眉《まゆ》の間に示すに過ぎなかった。
 二人は突然として邂逅《かいこう》し、突然として別れた。男は別れた後《のち》もしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。
「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者を捕《つら》まえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数《てかず》をかけたんだそうだ」
「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。
「それは秘密だ。名前や所はいっさい云われない事になっている。約束だからね。それは好いが、そいつが私《わたし》にその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。何という主意か解らないが、つまりは無沙汰見舞《ぶさたみまい》のようなものさ。当人に云わせると、学問しただけに、鹿爪《しかつめ》らしい理窟《りくつ》を何《なん》が条《じょう》も並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。それにどうして盲目になったか、それが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなし、かつは女房子《にょうぼこ》の手前もあるから、自分はわざわざ出かけたくないのさ。のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌《しゃべ》っているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところが奴《やつ》学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとう私《わたし》が行く事になった」
「まあ馬鹿らしい」と嫂《あによめ》が云った。
「馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ」と父が答えた。客も自分も興味ありげに笑い出した。

0 件のコメント: