2008年11月6日木曜日

三十六

 自分は佗《わ》びしい光でやっと見分《みわけ》のつく小桶《こおけ》を使ってざあざあ背中を流した。出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色《けしき》がないのでやめた。
 嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。「何だか暗くって気味が悪いのね。それに桶《おけ》や湯槽《ゆぶね》が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」
 その時自分は畏《かしこ》まった下女を前に置いて蝋燭の灯を便《たより》に宿帳をつけべく余儀なくされていた。
「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」
「どうでも。好い加減に願います」
 嫂はこう云って小さい袋から櫛《くし》やなにか這入《はい》っている更紗《さらさ》の畳紙《たとう》を出し始めた。彼女は後向《うしろむき》になって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざと傍《そば》に一郎|妻《さい》と認《したた》めた。同様の意味で自分の側《わき》にも一郎|弟《おとと》とわざわざ断った。
 飯の出る前に、何の拍子《ひょうし》か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びの鬨《とき》の声を挙げたものがあった。暴風雨《しけ》で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳《ぜん》の上は明かであった。
「まるで生返ったようね」と嫂が云った。
 すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急に箸《はし》を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。
「おやおや」
 下女は大きな声をして朋輩《ほうばい》の名を呼びながら灯火《あかり》を求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂《あによめ》が、いつの間にか薄く化粧《けしょう》を施したという艶《なまめ》かしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇《まっくら》なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。
「姉さんいつ御粧《おつくり》したんです」
「あら厭《いや》だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」
 下女は暗闇《くらやみ》で笑い出した。そうして自分の眼ざとい事を賞《ほ》めた。
「こんな時に白粉《おしろい》まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。
「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。
 自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭《ろうそく》を二本ばかり点《つ》けて来た。
 室《へや》の中は裸蝋燭の灯《ひ》で渦《うず》を巻くように動揺した。自分も嫂も眉《まゆ》を顰《ひそ》めて燃える焔《ほのお》の先を見つめていた。そうして落ちつきのない淋《さび》しさとでも形容すべき心持を味わった。
 ほどなく自分達は寝た。便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐように覗《のぞ》いて見た。今まで多少静まっていた暴風雨《あらし》が、この時は夜更《よふけ》と共に募《つの》ったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦《す》れ合って、互に黒い針に似たものを隙間《すきま》なく出しながら、この暗さを大きな音の中《うち》に維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮《いしゅく》した。
 蚊帳《かや》の外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯《あんどん》を置いて行った。その行灯がまた古風《こふう》な陰気なもので、いっそ吹き消して闇《くら》がりにした方が、微《かす》かな光に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。自分は燐寸《マッチ》を擦《す》って、薄暗い所で煙草《たばこ》を呑《の》み始めた。

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