2008年11月11日火曜日

二十九

 自分は行《ゆき》がかり上《じょう》一応岡田に当って見る必要があった。宅《うち》へ電報を打つという三沢をちょっと待たして、ふらりと病院の門を出た。岡田の勤めている会社は、三沢の室《へや》とは反対の方向にあるので、彼の窓から眺《なが》める訳には行かないけれども、道程《みちのり》からいうといくらもなかった。それでも暑いので歩いて行くうちに汗が背中を濡《ぬ》らすほど出た。
 彼は自分の顔を見るや否や、さも久しぶりに会った人らしく「やっしばらく」と叫ぶように云った。そうしてこれまでたびたび電話で繰り返した挨拶《あいさつ》をまた新しくまのあたり述べた。
 自分と岡田とは今でこそ少し改まった言葉使もするが、昔を云えば、何の遠慮もない間柄であった。その頃は金も少しは彼のために融通してやった覚《おぼえ》がある。自分は勇気を鼓舞《こぶ》するために、わざとその当時の記憶を呼起してかかった。何にも知らない彼は、立ちながら元気な声を出して、「どうです二郎さん、僕の予言は」と云った。「どうかこうか一週間うちにあなたを驚かす事ができそうじゃありませんか」
 自分は思い切って、まず肝心《かんじん》の用事を話した。彼は案外な顔をして聞いていたが、聞いてしまうとすぐ、「ようがす、そのくらいならどうでもします」と容易に引き受けてくれた。
 彼は固《もと》よりその隠袋《ポッケット》の中《うち》に入用《いりよう》の金を持っていなかった。「明日《あした》でも好いんでしょう」と聞いた。自分はまた思い切って、「できるなら今日中《きょうじゅう》に欲しいんだ」と強いた。彼はちょっと当惑したように見えた。
「じゃ仕方がない迷惑でしょうけれども、手紙を書きますから、宅《うち》へ持って行ってお兼に渡して下さいませんか」
 自分はこの事件についてお兼さんと直接の交渉はなるべく避けたかったけれども、この場合やむをえなかったので、岡田の手紙を懐《ふところ》へ入れて、天下茶屋へ行った。お兼さんは自分の声を聞くや否や上り口まで馳《か》け出して来て、「この御暑いのによくまあ」と驚いてくれた。そうして、「さあどうぞ」を二三返繰返したが、自分は立ったまま「少し急ぎますから」と断って、岡田の手紙を渡した。お兼さんは上り口に両膝《りょうひざ》を突いたなり封を切った。
「どうもわざわざ恐れ入りましたね。それではすぐ御伴をして参りますから」とすぐ奥へ入った。奥では用箪笥《ようだんす》の環《かん》の鳴る音がした。
 自分はお兼さんと電車の終点までいっしょに乗って来てそこで別れた。「では後《のち》ほど」と云いながらお兼さんは洋傘《こうもり》を開いた。自分はまた俥《くるま》を急がして病院へ帰った。顔を洗ったり、身体《からだ》を拭いたり、しばらく三沢と話しているうちに、自分は待ち設けた通りお兼さんから病院の玄関まで呼び出された。お兼さんは帯の間にある銀行の帳面を抜いて、そこに挟《はさ》んであった札《さつ》を自分の手の上に乗せた。
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
 自分は形式的にそれを勘定した上、「確《たしか》に。――どうもとんだ御手数《おてかず》をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡《ぬ》らしていた。
「どうです、ちっと上って涼んでいらしったら」
「いいえ今日《こんにち》は急ぎますから、これで御免《ごめん》を蒙《こうむ》ります。御病人へどうぞよろしく。――でも結構でございましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、よく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが」
 お兼さんはこんな愛想《あいそ》を云いながら、また例のクリーム色の洋傘《こうもり》を開いて帰って行った。

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