2008年11月6日木曜日

十八

 父は年の割に度胸の悪い男なので、女からこう云われた時は、どんな凄《すさ》まじい文句を並べられるかと思って、少からず心配したそうである。
「幸い相手の眼が見えないので、自分の周章《あわて》さ加減を覚《さと》られずにすんだ」と彼はことさらにつけ加えた。その時女はこう云ったそうである。
「私は御覧の通り眼を煩《わずら》って以来、色という色は皆目《かいもく》見えません。世の中で一番明るい御天道様《おてんとさま》さえもう拝む事はできなくなりました。ちょっと表へ出るにも娘の厄介《やっかい》にならなければ用事は足せません。いくら年を取っても一人で不自由なく歩く事のできる人間が幾人《いくたり》あるかと思うと、何の因果《いんが》でこんな業病《ごうびょう》に罹《かか》ったのかと、つくづく辛い心持が致します。けれどもこの眼は潰《つぶ》れてもさほど苦しいとは存じません。ただ両方の眼が満足に開いている癖に、他《ひと》の料簡方《りょうけんがた》が解らないのが一番苦しゅうございます」
 父は「なるほど」と答えた。「ごもっとも」とも答えた。けれども女のいう意味はいっこう通じなかった。彼にはそういう経験がまるでなかったと彼は明言した。女は瞹眛《あいまい》な父の言葉を聞いて、「ねえあなたそうではございませんか」と念を押した。
「そりゃそんな場合は無論有るでしょう」と父が云った。
「有るでしょうでは、あなたもわざわざ○○さんに御頼まれになって、ここまでいらしって下すった甲斐《かい》がないではございませんか」と女が云った。父はますます窮した。
 自分はこの時偶然兄の顔を見た。そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑を洩《も》らしているような嫂《あによめ》の唇《くちびる》との対照を比較して、突然彼らの間にこの間から蟠《わだか》まっている妙な関係に気がついた。その蟠まりの中に、自分も引きずり込まれているという、一種|厭《いと》うべき空気の匂《にお》いも容赦なく自分の鼻を衝《つ》いた。自分は父がなぜ座興とは云いながら、択《よ》りに択って、こんな話をするのだろうと、ようやく不安の念が起った。けれども万事はすでに遅かった。父は知らぬ顔をして勝手次第に話頭を進めて行った。
「おれはそれでも解らないから、淡泊《たんぱく》にその女に聞いて見た。せっかく○○に頼まれてわざわざここまで来て、肝心《かんじん》な要領を伺わないで引き取っては、あなたに対してはもちろん○○から云っても定めし不本意だろうから、どうかあなたの胸を存分私に打明けて下さいませんか。それでないと私も帰ってから○○に話がし悪《にく》いからって」
 その時女は始めて思い切った決断の色を面《おもて》に見せて、「では申し上げます。あなたも○○さんの代理にわざわざ尋ねて来て下さるくらいでいらっしゃるから、定めし関係の深い御方には違いございませんでしょう」という冒頭《まえおき》をおいて、彼女の腹を父に打明けた。
 ○○が結婚の約束をしながら一週間|経《た》つか経たないのに、それを取り消す気になったのは、周囲の事情から圧迫を受けてやむをえず断ったのか、あるいは別に何か気に入らないところでもできて、その気に入らないところを、結婚の約束後急に見つけたため断ったのか、その有体《ありてい》の本当が聞きたいのだと云うのが、女の何より知りたいところであった。
 女は二十年以上○○の胸の底に隠れているこの秘密を掘り出したくってたまらなかったのである。彼女には天下の人がことごとく持っている二つの眼を失って、ほとんど他《ひと》から片輪《かたわ》扱いにされるよりも、いったん契《ちぎ》った人の心を確実に手に握れない方が遥《はる》かに苦痛なのであった。
「御父さんはどういう返事をしておやりでしたか」とその時兄が突然聞いた。その顔には普通の興味というよりも、異状の同情が籠《こも》っているらしかった。
「おれも仕方がないから、そりゃ大丈夫、僕が受け合う。本人に軽薄なところはちっともないと答えた」と父は好い加減な答えをかえって自慢らしく兄に話した。

0 件のコメント: