2008年11月6日木曜日

三十五

 二人が風に耳を峙《そば》だてていると、下女が風呂の案内に来た。それから晩食《ばんめし》を食うかと聞いた。自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。
「どうします」と嫂《あによめ》に相談して見た。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳《おぜん》だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。
 下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中《うちじゅう》の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤《すす》けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗《まっくら》になった。自分は鼻の先に坐《すわ》っている嫂を嗅《か》げば嗅がれるような気がした。
「姉さん怖《こわ》かありませんか」
「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉《はすは》の態度もなかった。
 二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨《あらし》は今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀《へい》も電柱も、見境《みさかい》なく吹き捲《めく》って悲鳴を上げさせた。自分達の室《へや》は地面の上の穴倉みたような所で、四方共|頑丈《がんじょう》な建物だの厚い塗壁だのに包《かこ》まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種|凄《すさま》じい音響は、暗闇《くらやみ》に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇《いかく》であった。
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯《ひ》を持って来るでしょうから」
 自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜《こまく》に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆《うるし》に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分の傍《そば》にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。
「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅《うるさ》そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘《うそ》だと思うならここへ来て手で障《さわ》って御覧なさい」
 自分は手捜《てさぐ》りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦《す》れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻《さっき》下女が浴衣《ゆかた》を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂《あによめ》が答えた。
 自分が暗闇《くらやみ》で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭《ろうそく》を点《つ》けて縁側伝《えんがわづた》いに持って来た。そうしてそれを座敷の床《とこ》の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔《ほのお》がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤《すす》けた天井はもちろん、灯《ひ》の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋《さび》しく焦立《いただ》たせた。ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。自分は手拭《てぬぐい》を持って、また汗を流しに風呂へ行った。風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。

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