2008年11月6日木曜日

三十七

 お貞さんが攫《さら》われて行くように消えてしまった後の宅《うち》は、相変らずの空気で包まれていた。自分の見たところでは、お貞さんが宅中《うちじゅう》で一番の呑気《のんき》ものらしかった。彼女は永年世話になった自分の家に、朝夕《あさゆう》箒《ほうき》を執《と》ったり、洗《あら》い洒《そそ》ぎをしたりして、下女だか仲働だか分らない地位に甘んじた十年の後《あと》、別に不平な顔もせず佐野といっしょに雨の汽車で東京を離れてしまった。彼女の腹の中も日常彼女の繰り返しつつ慣れ抜いた仕事のごとく明瞭《めいりょう》でかつ器械的なものであったらしい。一家|団欒《だんらん》の時季とも見るべき例の晩餐《ばんさん》の食卓が、一時重苦しい灰色の空気で鎖《とざ》された折でさえ、お貞さんだけはその中に坐って、平生と何の変りもなく、給仕の盆を膝《ひざ》の上に載せたまま平気で控えていた。結婚当日の少し前、兄から書斎へ呼ばれて出て来た時、彼女の顔を染めた色と、彼女の瞼《まぶた》に充《み》ちた涙が、彼女の未来のために、何を語っていたか知らないが、彼女の気質から云えば、それがために長い影響を受けようとも思えなかった。
 お貞さんが去ると共に冬も去った。去ったと云うよりも、まず大した事件も起らずに済んだと評する方が適当かも知れない。斑《まだ》らな雪、枯枝を揺《ゆさ》ぶる風、手水鉢《ちょうずばち》を鎖《と》ざす氷、いずれも例年の面影《おもかげ》を規則正しく自分の眼に映した後、消えては去り消えては去った。自然の寒い課程がこう繰返されている間、番町の家はじっとして動かずにいた。その家の中にいる人と人との関係もどうかこうか今まで通り持ち応《こた》えた。
 自分の地位にも無論変化はなかった。ただお重が遊び半分時々苦情を訴えに来た。彼女は来るたびに「お貞さんはどうしているでしょうね」と聞いた。
「どうしているでしょうって、――お前の所へ何とも云って来ないのか」
「来る事は来るわ」
 聞いて見ると、結婚後のお貞さんについて、彼女は自分より遥《はるか》に豊富な知識をもっていた。
 自分はまた彼女が来るたびに、兄の事を聞くのを忘れなかった。
「兄さんはどうだい」
「どうだいって、あなたこそ悪いわ。家《うち》へ来ても兄さんに逢《あ》わずに帰るんだから」
「わざわざ避けるんじゃない。行ってもいつでも留守なんだから仕方がない」
「嘘《うそ》をおっしゃい。この間来た時も書斎へ這入《はい》らずに逃げた癖に」
 お重は自分より正直なだけに真赤《まっか》になった。自分はあの事件以後どうかして兄と故《もと》の通り親しい関係になりたいと心では希望していたが、実際はそれと反対で、何だか近寄り悪《にく》い気がするので、全くお重の云うごとく、宅《うち》へ行って彼に挨拶《あいさつ》する機会があっても、なるべく会わずに帰る事が多かった。
 お重にやり込められると、自分は無言の降意を表するごとくにあははと笑ったり、わざと短い口髭《くちひげ》を撫《な》でたり、時によると例の通り煙草に火を点《つ》けて瞹眛《あいまい》な煙を吐いたりした。
 そうかと思うとかえってお重の方から突然「大兄さんもずいぶん変人ね。あたし今になって全くあなたが喧嘩《けんか》して出たのも無理はないと思うわ」などと云った。お重から藪《やぶ》から棒にこう驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人|殖《ふ》えたような気がして嬉《うれ》しかった。けれども表向彼女の意見に相槌《あいづち》を打つほどの稚気《ちき》もなかった。叱りつけるほどの衒気《げんき》もなかった。ただ彼女が帰った後で、たちまち今までの考えが逆《さかさ》まになって、兄の精神状態が周囲に及ぼす影響などがしきりに苦になった。だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺《ず》り込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。

0 件のコメント: