2008年11月6日木曜日

二十六

 その日自分が事務所から帰ってお重に「兄さんは」と聞くと、「まだよ」という返事を得た。
「今日はどこかへ廻る日なのかね」と重《かさ》ねて尋ねた時、お重は「どうだか知らないわ。書斎へ行って壁に貼《は》りつけてある時間表を見て来て上げましょうか」と云った。
 自分はただ兄が帰ったら教えてくれるように頼んで、誰にも会わずに室《へや》へ這入《はい》った。洋服を脱《ぬ》ぎ替えるのも面倒なので、そのまま横になって寝ているうち、いつの間にか本当の眠りに落ちた。そうして他人に説明も何もできないような複雑に変化する不安な夢に襲われていると、急にお重から起された。
「大兄《おおにい》さんがお帰りよ」
 こういう彼女の言葉が耳に這入った時、自分はすぐ起ち上がった。けれども意識は朦朧《もうろう》として、夢のつづきを歩いていた。お重は後《うしろ》から「まあ顔でも洗っていらっしゃい」と注意した。判然《はっきり》しない自分の意識は、それすらあえてする勇気を必要と感ぜしめなかった。
 自分はそのまま兄の書斎に這入った。兄もまだ洋服のままであった。彼は扉《ドア》の音を聞いて、急に入口に眼を転じた。その光のうちにはある予期を明かに示していた。彼が外出して帰ると、嫂《あによめ》が芳江を連れて、不断の和服を持って上がって来るのが、その頃の習慣であった。自分は母が嫂に「こういう風におしよ」と云いつけたのを傍《そば》にいて聞いていた事がある。自分はぼんやりしながらも、兄のこの眼附によって、和服の不断着より、嫂と芳江とを彼は待ち設けていたのだと覚《さと》った。
 自分は寝惚《ねぼ》けた心持が有ったればこそ、平気で彼の室を突然開けたのだが、彼は自分の姿を敷居の前に見て、少しも怒《いか》りの影を現さなかった。しかしただ黙って自分の背広姿《せびろすがた》を打ち守るだけで、急に言葉を出す気色《けしき》はなかった。
「兄さん、ちょっと御話がありますが……」
と、自分はついにこっちから切り出した。
「こっちへ御這入り」
 彼の言語は落ちついていた。かつこの間の事について何の介意《かいい》をも含んでいないらしく自分の耳に響いた。彼は自分のために、わざわざ一脚の椅子を己れの前へ据《す》えて、自分を麾《さしま》ねいた。
 自分はわざと腰をかけずに、椅子の背に手を載せたまま、父や母に云ったとほぼ同様の挨拶《あいさつ》を述べた。兄は尊敬すべき学者の態度で、それを静かに聞いていた。自分の単簡《たんかん》の説明が終ると、彼は嬉《うれ》しくも悲しくもない常の来客に応接するような態度で「まあそこへおかけ」と云った。
 彼は黒いモーニングを着て、あまり好い香《におい》のしない葉巻を燻《くゆ》らしていた。
「出るなら出るさ。お前ももう一人前《いちにんまえ》の人間だから」と云ってしばらく煙ばかり吐いていた。それから「しかしおれがお前を出したように皆《みん》なから思われては迷惑だよ」と続けた。「そんな事はありません。ただ自分の都合で出るんですから」と自分は答えた。
 自分の寝惚《ねぼ》けた頭はこの時しだいに冴《さ》えて来た。できるだけ早く兄の前から退《しりぞ》きたくなった結果、ふり返って室の入口を見た。
「直《なお》も芳江も今湯に這入っているようだから、誰も上がって来やしない。そんなにそわそわしないでゆっくり話すが好い、電灯でも点《つ》けて」
 自分は立ち上がって、室《へや》の内を明るくした。それから、兄の吹かしている葉巻を一本取って火を点《つ》けた。
「一本八銭だ。ずいぶん悪い煙草だろう」と彼が云った。

0 件のコメント: