2008年11月5日水曜日

五十二

 私は旅行に出てから今日《こんにち》に至るまでの兄さんを、これでできるだけ委《くわ》しく書いたつもりです。東京を立ったのはつい昨日《きのう》のようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信《たより》をあてにして待っておられるあなたや御年寄には、この十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。しかしこの手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、ここへ来て落ちつくまでは、ほとんど筆を執《と》る余裕がなかったので、やむをえず遅れました。その代り過去十日間のうち、この手紙に洩《も》れた兄さんは一日もありません。私は念を入れてその日その日の兄さんをことごとくこの一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、この手紙を書き終るのですから。
 私の費やした時間は、時計の針で仕事の分量を計算して見ない努力だから、数字としては申し上げられませんが、ずいぶんの骨折には違ありませんでした。私は生れて始めてこんな長い手紙を書きました。無論一気には書けません、一日にも書けません。ひまの見つかり次第机に向って書きかけたあとを書き続けて行ったのです。しかしそれは何でもありません。もし私の見た兄さんと、私の理解した兄さんがこの一封のうちに動いているならば、私は今より数層倍の手数《てかず》と労力を費やしても厭《いと》わないつもりです。
 私は私の親愛するあなたの兄さんのために、この手紙を書きます。それから同じく兄さんを親愛するあなたのためにこの手紙を書きます。最後には慈愛に充《み》ちた御年寄、あなたと兄さんの御父さんや御母さんのためにもこの手紙をかきます。私の見た兄さんはおそらくあなた方《がた》の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価《あたい》するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。
 あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭《めいりょう》な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙《くちばし》を挟《さしは》さむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被《かぶ》さった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍《はた》のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他《ひと》を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼《せま》るのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。
 私は過去十日間の兄さんを、書きました。この十日間の兄さんが、未来の十日間にどうなるかが問題で、その問題には誰も答えられないのです。よし次の十日間を私が受け合うにしたところで、次の一カ月、次の半年《はんとし》の兄さんを誰が受け合えましょう。私はただ過去十日間の兄さんを忠実に書いただけです。頭の鋭くない私が、読み直すひまもなくただ書き流したものだから、そのうちには定めて矛盾があるでしょう。頭の鋭い兄さんの言行にも気のつかないところに矛盾があるかも知れません。けれども私は断言します。兄さんは真面目《まじめ》です。けっして私をごまかそうとしてはいません。私も忠実です。あなたを欺《あざむ》く気は毛頭《もうとう》ないのです。
 私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠《ねむり》から永久|覚《さ》めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」

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